丹羽前伊藤忠会長を中国大使に起用すると言うニュースは、一様に驚きをもって迎えられ、その是非を巡って世論は大きく分かれました。
民間大使反対論は「利害の衝突や、難題への対処が微妙な時期に、専門知識、情報、人脈や中国との交渉経験を持たない民間人に、重要ポストを任せる事は国益を危うくする」と言う外交官擁護論が大半を占めました。
これら外交官擁護論の殆どが「専門知識」「外交経験」「情報量」「人脈」等々、外交官が持つ「道具」の立派さばかりを強調しています。ひょっとすると、、日本外交の行き詰まりは「道具重視」の外交にあったのかも知れません。
賛成論はと見ると「大使ポストでの民間人起用は、行政機構に新しい風を吹き込む効果がある」と言う穏健な意見から「今日の日本に、国民のため、国家のために役立とうという高い志を持った官僚は皆無である。」と言う天木前レバノン大使の言葉を引用した感情論も含め、外務官僚化した外交官に対する疑念が多く見られました。
中には、「民間人登用の異例の人事には、北京では驚きと戸惑いが渦巻き、日本の意図を理解しかねている。外交上の実務経験や知識がまったくない民間人に、国益に直結する対中外交を委ねる事は大きな危険性をはらむ。大使人事は、政治主導の名の下、単なる官僚外しに走ってはなるまい。」と言った具合に、海外の風聞と言う形で、記者の個人的偏見を記事として流す新聞も散見されました。
マスコミと言えば、丹羽氏はマスコミの寵児でした。伊藤忠の社長時代から、特に見栄えする風貌でもなく雄弁とも言えない彼が、全国でもトップクラスのスター講師だと聞き、「マスコミに上手く乗っかったな!」と思った時期もありました。
そのような時、尊敬する先輩から届けられた著書に「コミュにケーションには、言語によるものと非言語によるものがあると言われて居ますが、本当に好意を持って受け入れられるコミュニケーションは非言語によるものが多いとの研究結果もあります。お役人も、もっと情熱と愛情のある説得力のある話し方を身につけて欲しいものです。」と言う記述を見つけ、私は一人合点したものです。
テレビ討論が勝敗を分けた最初の選挙として有名な、1960年の米国大統領選は、接戦の末ケネデイー候補が勝利しましたが、その時のアンケート調査では、TVで論争を見た有権者はケネデイー候補に軍配を上げ、ラジオで聞いた有権者は、ニクソン候補を支持したと言う結果が発表されています。この例は、非言語のコミュニケーションが言語のコミュニケーションを破った好例です。
丹羽大使の飾らぬ人柄と謙虚な立ち居振る舞いが、多くの人の好感を呼び、本音を引き出す魔力を持っている事は間違いありません。持ち前の交渉力にこの魅力が加われば、鬼に金棒の大使になれると信じています。
私が丹羽大使に期待する最大の理由は、何と言っても彼の卓越した判断力です。継続して正しい結果を出す判断力は、明晰な頭脳、卓越した知識、豊富な経験などの道具の良さに加え,確りした目標設定と天賦の才を必要とします。
経験が人の才能を磨く事も否定しません。待ったなしのスピードで多数の変数を処理しながら、常に結果責任を問われる油脂の世界で成功した丹羽大使は、豊富な読書量に加え、最新のデータを武器に天性の勘を加えて判断する人物で、単に勘に頼るスペキュレーターとは異なる人物です。
その点、激動する世界を相手に、膨大な情報を処理しながら、国益追及を求められる中国大使の地位は、厳しい危機管理をこなして来た丹羽氏には適職だと言えましょう。
心配があるとしたら「官僚は優秀だ。悪いのは使いこなせないトップだ。」と本気で信じていることです。大使自身、地方分権会議の議長として提案した改革案が、官僚の抵抗で殆ど骨抜きになった現実を忘れてはなりません。
法律で結果責任を免除された外交官が、リスクのある国益追及より、組織防衛と弁解を優先させる事は、人間なら当たり前です。「官僚機関説」を認めず、結果責任もない官僚が、インセンテイブも無いのに大使の意向に従うなどと思うのは「蓮田にサボテンを移植して,開花を待つ」と同じくらい無理があります。
、日本の外交の改革の一環を担う事を期待されて任命されたと聞く丹羽大使は、本省を見て仕事をするキャリアーより、目標が明確でバイアスの少ない専門官を充実させ、彼らからの情報に軸足を移すくらいの思い切った工夫が必要でしょう。
ニューヨークにて 北村隆司注