戦争は「不合理なコミットメント」

池田 信夫

尖閣諸島の漁船衝突事件で那覇地検が船長を釈放した判断については、自民党から共産党まで「民主党政権は弱腰だ」という批判の大合唱です。それは感情論としてはわかりますが、地検の判断は(事後的には)合理的で、おそらくこういう結果しかありえなかった。これを問題を単純化してゲーム理論で考えてみましょう。

日本と中国をそれぞれ横軸と縦軸のプレイヤーとし、二つの行動(強硬と屈服)による利得を考えます。中国が強硬に出た場合、日本も強硬策をとると紛争が起きて日中の利得は順に(-1,-1)となりますが、日本が屈服すると利得は(1,2)となって日本にとっても有利です。これはチキン・ゲームで、ナッシュ均衡は(混合戦略を除くと)一方が強硬策に出て他方が屈服するしかありません。

強硬 屈服
強硬 -1,-1 2,1
屈服 1,2 0,0


今回の地検の決定は、日中の対立(-1,-1)から日本の屈服(1,2)に状態を変更する合理的な判断です。中国の態度が変わらないかぎり、日本が屈服することが双方にとって事後的には最適だからです。しかしこれはゲームが1回かぎりの場合で、問題が繰り返される場合には、相手が2つの均衡のどちらを選ぶかについての予想が重要です。

上の図を一般化してチキン・ゲームが繰り返される消耗戦(war of attrition)を考えて混合戦略も含めると、屈服する確率は利得の減少関数になります。つまり日本が簡単に屈服することは、領土を守ることによる利得が小さいというシグナルを出して、中国の攻撃を誘発する結果になります。

逆にいうとチキン・ゲームに勝つためには、合理的に行動しないコミットメントが必要です。事後的に判断すると屈服することが合理的になるので、そういう利害を斟酌しないという機械的なルールを決めるのです。以前の記事でも書いたように、刑罰はこのような意味でのコミットメントです。殺人犯を死刑にしても被害者は戻ってこないので、刑罰は(事後的には)不合理ですが、そういうcommitment deviceがないと犯罪はやり放題になります。

これが近代国家における非人格的な法の支配の本質ですが、中国は「人治国家」なので、為政者の判断でルールはどうにでも曲げられると思っているでしょう。だから日本政府としては、あらかじめ領海侵犯についてのルールを対外的に明示して、たとえば「尖閣列島の領海侵犯はすべて海上保安庁の判断で自動的に逮捕・起訴する」と法律で決め、政府は何も介入しないことをあらかじめ宣告すべきです。

それができないのなら屈服しかないので、最初に船長を逮捕すべきではなかった。逮捕する前に海保は国交省に判断を求めており、前原国交相(当時)はそれにOKを出しました。これは「チキン・ゲームを辞さない」という意思表示であり、それなら途中で屈服してはいけない。このように外交姿勢が一貫せず、コミットメントが欠けていることが自民党時代から続く日本外交の最大の欠陥で、中国につけこまれるもとです。

これは本源的な意思決定者である内閣が機能せず、その代理人にすぎない官僚機構に外交を丸投げしてきたことが原因です。代理人は結果に責任を負わないので、つねに合理的に(機会主義的に)行動するインセンティブをもつからです。今回のような問題こそ、民主党お得意の「政治主導」を発揮すべきでした。小沢一郎氏が首相になっていれば、温家宝首相と国連で交渉して兵を引かせるぐらいのことはやったのではないでしょうか。

コメント

  1. pacta より:

    今回の事件の問題点がすっきり整理されていると思います。
    政治主導と情報のオープン化をうたって政権を奪取した人達が、主権に関わる判断を地方検事に委ねたと発表するなんて、酷い喜劇です。
    もしかしたら、地方分権の一環なのかも知れませんが(皮肉)。
    ただ、こういう発表を平然と出来る仙谷官房長官の面の皮の厚さだけは大したものです。

  2. srx600_2 より:

    釈放の判断に、政治的思惑がまったく無いのだとしたら、池田さんの仰っることは正しいのかもしれませんが・・・
    政治主導で決着がついたと考えるのが妥当ですよ。
    民主党の犬のごとき、中国への忠誠心を見るかぎり、これ以上逆らえないと判断したのか、それとも自ら最悪な結末を望んでいたのか。

    国家の戦略や政治の意思決定といいますが、それらは国家を守る意志、愛国心から発生するもので、目的のない戦略や意志など存在しえないはずです。
    民主党の政治主導など狂言の類だと、改めて実証されたわけですよ。

  3. もなもな より:

    途中で釈放するくらいなら最初から勾留延長をすべきでなかった。延長した以上は最後まで行くべきで、一貫性が無さ過ぎる。

    いずれにしても勾留延長してもせいぜい10日間位ですから、それによって日中関係が今現在より決定的に悪くなるとは思えません。

    中国に(日本に対して)強硬に出れば良いと思わせただけの外交的大敗北、大失態でした。民主党がこれほどの素人集団とは思わなかった。

  4. yuukonteritori より:

    媚中派として名高い小沢に何かできるとは思えないのですが。昨年末にも、習近平と天皇との会談を中国の圧力に屈して強引に設定した人物ですよ。小沢一郎という男は。菅、仙石以上の腰抜けですよ。

  5. boss_organ より:

    中国には最終的に戦争という手段があり、日本にはない以上、チキン・ゲームに勝つ見込みはゼロですから、船長解放はやむを得ないと思います(最初から国外退去にすべきでしたが・・・)。また、今後もこの調子では困るので、非合理的行動のコミットメントが必要という点も賛成です。
    ですが「海上保安庁の判断で自動的に逮捕・起訴」ではあまりにもわかりにくくて、コメットメントとして国際的に認知されることはないと思います。憲法9条を改正する、軍事費を増額するといったわかりやすいコミットメントが必要と思います。

  6. bobbob1978 より:

    「しかしこれはゲームが1回かぎりの場合で、問題が繰り返される場合には、相手が2つの均衡のどちらを選ぶかについての予想が重要です。」

    有名なタカとハトに関するゲーム理論ですね。1回限りやプレイヤーが二人だけのゲームを考えると今回の判断は正しかったと思います。しかし現実は繰り返しゲームであり、また他のプレイヤーもいるので、今回の一件は将来の外交に禍根を残すことになるでしょう。

    一番の問題は文中でも触れられているように途中でルールを曲げたことです。最初から国外退去処分にしていればここまで拗れることはなかったのに・・・。

  7. TxMy より:

    最初から逮捕すべきでなかったかどうかはこれからの日本政府の対応による.そして逮捕してからこのタイミングでの釈放は絶妙だったのではないか?これ以上長引けば双方の国,ひいては世界にとって大きな痛手となっていただろう.
    世界の損得と日本のプライドに挟まれた中でよくこの決断をできたと自分は評価しています.

  8. horie_takapon より:

    中国は軍事介入を匂わせつつも、それを出来ないのは艦隊による威信行動が世界から見たマイナスイメージを増加させるのを恐れているからではないかと思われる。
    これは日本側の政治的な決断が必要ではあるが、もし仮に有事になっても現行の自衛隊装備であれば阻止出来うると考えている。米軍は今回の件で日本と共に土俵に上がる事はないだろうが、土俵に上がる前の様々な支援をしてくれるであろう。(限定的な制空海権の付与等)
    現行の中国海軍はハードこそ揃ってはいるが脅威を与えられそうなのは通常動力型潜水艦隊のみであると考えている。

  9. weavie より:

    いわゆる数学のゲーム理論で説明されていますが、ここでいう合理的と言うのはあくまでも”数学上の意味での合理的”であって、決して”外交上の合理的”では無いと言うことをはっきりさせなければなりません。 
    中国が屈服しない以上(これはこの論評上の池田氏の前提です。)、日本が強行か屈服かを選択する場合、たとえ外交上負けたとしてもプラスの利得が出る”屈服”を選択するほうが数学上合理的と言えますが、そもそもこの場合外交上何を持って利得とするのかが問題となります。今回の件で日本の利得となるものを敢えて上げるとすれば、それは単に中国の対抗処置による経済的損失が防げたということぐらいしかありません。しかし、これを今後も認めていくと、たとえ日本側に正義があったとしても、強硬にごり押ししてくる相手には、永遠にたかられる事になります。また、当然のことですが、外交は一回きりのゲームではなく、これからも続いていくものであり、また他のプレイヤー(諸外国)もいることですから、日本は強硬に出れば必ず屈服すると言うイメージを与えた以上、今回の屈服によって日本は、得た利得よりもはるかに大きな外交上の損失をこうむったと考えなければなりません。こうして考えると、今回の判断は、外交上合理的な判断をしたとはとても言えないでしょう。
     目先の小さな利得を得ることしか考えない、いわゆる事なかれ主義の手法を今回も日本は選んだわけですが、このツケは大きな利息を伴って、将来我が国に突きつけられるのを覚悟しなければなりません。

  10. heromichi より:

    やや余談ですが、この決断は(日本全体ではなく)菅政権にとって合理的ではなかったと思います。
    一般論として、外敵と戦う政権の支持率は高いです。
    今の中国の政権もまさにそれを狙って強硬にきています。
    菅政権は、うちに小沢あり、外はねじれ国会ですから、このままであれば立ち往生するでしょう。
    この時、理不尽な中国と戦う姿勢を貫けば、支持率を高めることができたと思われます。
    たとえ戦いつづけることが日本にとって最適でなかったとしても、支持率が維持できれば御の字だったのではないでしょうか。
    菅政権というのは、よく言えばまじめ、悪く言えば戦略性がないと思いました。

  11. izumihigashi より:

    どうしても、外交・軍事面の話になると、日本は当然諸外国なら持っているであろう選択肢を最初から捨てた議論になりがちなので、あえて暴論を書きます。

    日本には戦争と言う選択肢はある!
    こうしましょう。

    その上で、中国に勝つ超限戦を勝ち抜く大戦略を練り上げます。

    実は日本はこれを全くやっていないのですが、
    今回の尖閣諸島事件は、中国が日本に仕掛ける
    超限戦【ちょうげんせん=手段とフィールドを選ばない戦争。軍事や経済だけでなく、サイバー空間、宇宙空間、歴史認識その他、ありとあらゆる場面で、手段を選ばず日本を屈服させる事を目的とした戦争。日本を屈服させる事が支那4000年の悲願。】

    くれぐれも、中国のトラップに引っかかりませぬよう、お気をつけあそばせ。