小児科医が考える金のかからない少子高齢化対策 -十河 剛

アゴラ編集部

少子高齢化社会はもはや避けては通れないものとなったが、少子化対策と高齢化対策を関連付けて論じられる事は少ない。

一口に高齢化対策と言っても、介護、老人医療、年金と範囲は広いが、極端な話しをすると多くの人が健康に長生きを出来れば、介護や老人医療はさほど問題にならなくなる。勿論、生物学的に加齢による変化とそれに伴う疾病は当然発生するが、これを最小限に抑え、論点をそこにそ絞る事が出来れば、解決は早い。一方、少子化対策も同様に子育て支援、周産期医療、保育、教育と幅は広いが、単純化すれば、子供が健やかに育つための社会基盤整備にということに尽きる。


この様な目標を達成するために必要な施策を予算制限なしに行えれば良いが、しかし、昨今の我が国の経済状況と医療・介護の置かれている状況を見ると、如何に金を使わず、必要な人材を確保して、必要な施策を行うかということが必須である。さて、そこで経済評論家でもなく、政治家でもない、言わば、ド素人の一小児科医である私が金を使わずに、人を集め、必要なサービスを提供する方法を考えてみた。

ドラマ「北の国から」の中で、田中邦衛演じる黒坂五郎と唐十郎演じる高村吾平とが語り合う場面、五郎が近所の者同士がお互い助け合うお礼は物や金ではダメで手間で返す「手間返し」という慣習があると話すと、吾平は自分の住む地域にも同じ様な風習があり、「結(ゆい)」と呼んでいると応じる。ドラマの舞台となった小樽や羅臼に本当にこの様な風習があったかどうかは著者は知らないが、かつての日本の地域コミュニティには「困った時はお互い様」というような地域の中でお互い助け合いながら自助自立していく文化があった。「手間返し」「結」「お互い様」の日本古来の地域文化が復活出来れば、金をかけずに人を集めて少子高齢化対策が出来るのではないか?ただ、一度崩壊したコミュニティを復活させて、人と人とを結びつけることは容易でない。そこでちょっとした仕掛けが必要となる。

介護、子育て支援の世界にポイント制を導入する。人間を長いライフスパンで考えると金はないけど時間はある時期もあれば、金はある程度あるけど忙しくて時間がない時期もある。一生、貧乏暇なしで両方ともない人は人口比率からするとそう多くはない筈である。大抵、定年後は再就職しても、現役時代よりは時間的に余裕が出来るし、年金を貰って仕事も辞めるとさらに時間は出来る。65歳から年金を貰い始め、時間を持て余した方には自分に介護が必要になるまで、介護、育児、教育など、自分が得意な分野、自分が出来る事を出来る範囲で奉仕活動をして頂く。子育てが最も忙しく、大変なのは最初の一年、せいぜい小学校入学位までであろう。専業主婦も子育てに一段楽して働こうと思っても、この不景気で仕事がない。であれば、仕事探しの余った時間に奉仕して頂く。学生も最近は部活動はしない帰宅部が増えているとか、そして、アルバイトをしたくてもこの不景気で仕事もあまり回って来ないとか。であれば、勉学以外の余った時間に奉仕して頂く。

金はないけど、時間はある人は大勢いる。まとまった時間が取れなくても1日1時間でも良い、こういう余った時間に奉仕活動をして、奉仕活動をした分だけポイントを貯めていく。貯めたポイントは介護、育児の分野で利用できる。どの様なサービスにポイントがいくら必要かはある一定の制約の中で自由に決めていけば良い。既存のマイレージや量販店などのポイントと互換性があっても良い。貯めたポイントは親子間の相続のみ認め、その他の譲渡、売買は認めない。時間はないけどお金がある人は今までの介護保険にわずかばかり上乗せした分を払えば良いし、時間が出来れば奉仕活動をしてポイントを貯めていけば良い。実質的に行政が支援して、財政支出が必要になるのは、貧乏暇なしでお金も時間もない人口比率にするとわずかな人達と病気や障害のため働けない人達だけになる。

お年寄りには活動の場が増えるので認知症予防にもなるし、ある程度体力を使う作業もすれば、寝たきり予防にもなる。学校の授業で奉仕活動を取り入れようとする動きもあるが、子供達には奉仕活動を体験する場にもなる。「ポイントがもらえるのだから、奉仕活動ではない」なんて、細かい事には目を瞑ってもらいたい。行政側からすると、予算を増やさずに介護サービスと育児支援サービスの人材を集めて、サービスの質、量を上げることが出来る。かつ、今迄、行政側が負担して来た低所得者や無収入者の介護保険料や保育料などを奉仕活動という形で現物払いして貰えることになる。

専門家や自称専門家は異論を唱えるだろうが、この国の社会保障のあり方と地域社会の在り方を大きく変え得る提案だと思うが、如何だろうか?

済生会横浜市東部病院こどもセンター 医長 十河 剛(そごう つよし)
twitterアカウント Boo1chomeKojiCh

コメント

  1. agora_inoue より:

     ボランティアをポイント制にして、貸し借り関係を精算する制度は、ロッキード事件で活躍した元検事の堀田力さんが社会事業として10年以上前から行ってこられました。
    http://www.t-hotta.net/index.html
     検事を辞めるときには、福祉事業の根幹として提唱していたのに、最近さっぱり言わなくなったところをみると、うまくいかなかったんじゃないでしょうかね。

  2. worldcomw より:

    20年くらい前から、数年に一度はニュースになっていると思います。
    地域通貨 and ボランティアで検索すれば多数の事例が出てくるんじゃないでしょうか。

    うまく行かない理由を素人が考えると、
    ・奉仕と報酬のレートが安定しない
    ・通貨の価値自体が不安定で、長期的な保証が無い
    ・そもそもボランティアの風土がない

    いずれも強力なカリスマが一人居れば解決しますが、そういう意味では宗教法人が向いているのかもしれません。寺社の運営する保育施設や介護施設と組み合わせれば成功しそうですが、世間の反発も大きいでしょうね。

  3. tm4539 より:

    低成長が続く日本で、増大し続ける介護・保育を含む社会保障需要に公費≒税≒所得(もうけた金)だけで対応していくことには無理がある。民間参入を認める手もあるが、労働集約的で生産性の低い保育や介護に民間参入を認めても、サービス対象が一部高額所得者に限られる可能性が高い。その意味でお金を介さず現物サービスを地域で循環させるシステムを作るという発想には賛成です。
    むしろ賃金の低廉な介護ヘルパーや保育士に、賃金の補填としてポイントを付与し、自分や親族(子、親等)の保育・介護サービスに利用できるようにしたらどうでしょう。ポイントを受け取った介護・保育事業者も雇用するヘルパーや保育士の人件費の補填に使えるようにすればポイントを介して現物サービスが循環する。多くを公費で賄う介護ヘルパーや保育士の賃金は低廉で離職率も高く、需要が増えているのに雇用の受け皿なりえていない。ポイントで事実上の所得が向上すればなりても増えるし、事業者はお金をかけずに人手を厚くし、サービスの質を向上できる。保育、介護ともに市町村事業であり、市町村の工夫で実現できそうな気がするのですが・・・。

  4. https://me.yahoo.co.jp/a/u540mrdbVIb5etvNTFCFUJ40iuo- より:

     agora_inoueさん、worldcomwさんのコメントが的を射てると思いました。
     ポイント制とは、ローカル的といえども所詮通貨であり、実物通貨との交換に制限があるだけで、実質的には実物通貨と変わらないですね。
     つまり、好むと好まざるを得ず、市場経済のルールが自然に適用されてしまいますから、ポイント制にすればうまくいくという論理そのものが生じえないのです。
     現実的な方策としては、定年制を廃止し、健康であるかぎり働ける社会を目指し、税や保険料を納めてもらえば良いわけで、年金は金持ちに払う必要も無い。
     もちろん定年制の廃止を企業に義務付けるのではなく、雇用の流動化で実現するのは言うまでもないことだけど。

  5. 世の中には金に換算できる価値と、愛情のように換算できない価値があります。前者は永遠的で普遍的で累積する量的価値です。後者は刹那的で個別的で全か無かという質的価値です。前者は獲得して集める価値で、後者は恵んで分配する価値です。前者は貪食で後者は分泌です。吸気と呼気です。交感神経と副交感神経です。昼と夜です。所得と消費です。陽と陰です。父と母です。…ふぅ、疲れました。で、介護は後者に属する価値を提供しているので、ポイントなど前者に属する尺度で換算することが根本的に間違っているのです。批判ばかりでは申し訳ないので提言すれば、一つの世帯内で家族の一人が子育て介護的な価値を提供している世帯は、一方でお金を稼ぐ労働に従事している者の所得税を一定の割合で減免するというのはどうでしょうか。

  6. 保守 より:

    一つ気になる点がありますので僭越ながら指摘なさて戴きます。

    現場の医師、それも小児科医師であれば熟知されていると思いますが、既に日本は「クレーマー天国」に足を踏み込んでいますし、社会サービスが無料であることに対する「当然」の意識も異常域に入っております。

    そういった中で、ボランティアといっても、それに対する「感謝」の念など期待は薄いでしょうし、「トラブル」が起こった際の「責任」の所在が大問題となることは、火を見るより明らかではないでしょうか。
    そもそも「実質的な対価」がありながら「ボランティア」と称することには「決定的な欺瞞」がありますし、実質的な対価があるならば、当然のことながら「責任の追及」も逃れ得ないでしょう。
    では、これを「仕事」と位置付けるならば、結局「保険」や「補償」といった問題までが浮上してきますから、何の提言にも成りえません。
    またぞろ税金が抜けていくだけの顛末になりましょう。