民主党政府はまず八ッ場ダム問題で建設継続はあり得ないという強硬な姿勢によって周辺住民の信用を失い、次に普天間問題で沖縄住民と米国の信用を同時に失い、そして尖閣諸島問題では国民全体の信用を失いました。お次は全世界ということになりましょうか。
信を失うということは大変なことで、人格を否定されるに等しい意味を持ち、甚だしい不名誉、恥ずべきことであります。
鳩山元首相は普天間の失政、贈与税の脱税(未遂)、巨額の使途不明金の問題によって大きく信用を失いました。まともな感覚の人なら、政府の信用を失墜させ、国益を損ねたことに対して大いに恥じ入ることでしょう。首相という徴税側の代表が脱税を指摘されるだけでも顔から火の出る思いをする筈です。警察庁長官が窃盗するようなものですから。
しかしその後、臆面もなく表舞台に登場し、引退表明も撤回されました。この方の恥の感覚は理解を超えています。鳩山氏を選び、支持してきた民主党の方々も恐らく恥に対して同様な寛容さをお持ちなのでしょう。
菅首相(または仙谷官房長官、あるいは両方)は尖閣問題で中国船長の釈放は那覇地検の決定であるとしました。見え透いた嘘で責任を逃れるやり方は不誠実であり、卑怯という謗(そし)りを免れません。きっと卑怯を恥と思わない感性をお持ちなのでしょう。胡錦濤主席との首脳会談では、下を向いてメモを読む我らの代表者の姿にむしろ国民の方が恥ずかしい思いをしました。
「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」
少々古めかしいですが、これは封建社会を支えた武士の倫理を表したものです。今の日本社会はこれからずいぶん遠いところに来てしまったと、改めて思います。「禁欲的なやせ我慢の美学」から「金銭・物質的豊かさの追求」、武士の倫理から商人の倫理へと変化してきたと言えるでしょう。
40年前に自決した三島由紀夫は日本の現状を憂い「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と書きました。好き嫌いはともかく、三島の予想は概ね妥当なものであったようです。
以前は名誉を非常に重視した社会であり、名誉を失うことはすなわち恥でありました。つまり名誉は恥という負の感覚によって支えられてきたということができます。両者は表裏一体のものと考えてよいでしょう。
日本人論としてはすでに古典となりましたが「菊と刀」でルース・ベネディクトは日本の文化を「恥の文化」と呼びました。一言でいうと西欧人の行動を規定するものは宗教に基づく内面的な罪の意識であるのに対し、日本人のそれは恥である、という見方なのですが、結構納得させられることが多かった記憶があります。
恥の感覚は日本社会に深く根ざしたものなのですが、日本の「指導者」である両首相の振舞を見ると、「恥の文化」はずいぶん衰退したものだと、改めて思わざるを得ません。
戦後教育は封建社会と関わりのあるものを悉く排除しました。それを素直に受入れ、何の疑問を感じないまま大人になるとこのようになるのでしょうか。もともと宗教の影響が小さく、罪の意識が薄い日本社会から恥の意識を取り除けばどうなるか、なかなか興味ある問題です。
民主党の両首相は政治の指導者としての評判はあまりよろしくありませんが、身をもって恥の意識からの解放を示されたわけで、「文化の指導者」としては優れた資質をお持ちのようです。
この前の米国の民主党大統領候補の選挙中、ヒラリー氏は「オバマよ、恥を知れ」と強い言葉で非難したことがあります。米国でもこんな言い方をするのか、と感心しましたが、恥という意識はむしろ米国の方で生き続けるかもしれません。
コメント
今は武士の世の中ではありません。
今から武家社会にでもされたいのでしょうか。
そも、その武家社会の実際のところなどは、現代を
生きる我々にはわからないというのにです。
それは単なる懐古主義では?
民主党の迷走ぶりには困ったものですが、個々の
決定を是々非々で評価すればよいことであって、
恥などという感傷的な言葉をもって十把一絡げに
どうこういうなどというのは乱暴もよいところです。
政治的な決断の是非と、「恥」になるかは別であり
名誉などというものを基準に政治的な判断がなさ
れるなどというのは悪夢というべきでしょう。
政治的妥協に名誉があるとは思えませんから。
現実の堕落に抗いながら生きることができない
のであれば、三島のように自決するしかないで
しょう。それはそれで美しいことかもしれない。
しかし、現実を生きるのであれば政治的判断は
恥や名誉云々などではなく、妥当性や実現可能
性によってなされるべきですね。
民主党への批判も、そうした視点からなされな
ければ、有益なものとはならないでしょう。
不名誉なものを恥とするのであれば両首相には山ほど恥がありますね。ですがそれが何だというのでしょう。
仮に恥などというものを一切持たない清廉潔白な人が居たとしても、それだけでその人が首相に相応しいかどうかということは判断できません。なぜなら、政治というものは政策などで評価されるべきだからです。清廉潔白な人は大衆受けはよろしいのでしょうが、少なくとも私はそんな事には評価しません。
首相を恥知らずとして非難したいのでしょうが、私はそのような批判の仕方はナンセンスだと言っておきます。
白か黒か、という極端な受け止め方をされたようですが、私は懐古主義者でも国粋主義者でもないつもりです。
禁欲的なやせ我慢の美学」と「金銭・物質的豊かさの追求」を対比したまでです。
戦後教育は良きも悪しきもすべて捨て去ったことには問題があるでしょう。民主党の母体のひとつである社会党には戦後教育との親和性が高かったと思います。
また恥は罪に代わるものであり「感傷的な言葉」ではないと考えます。
有益な批判とは個々の政策に対するものだけではなく、政策を実施する主体に対してもあってよいと思います。
恥を知らない者に信頼を置く、ということはちょっと難しいのではないでしょうか。私なら躊躇します。
岡田克敏
民主党の幹部連中が恥知らずなのは確かでしょう。彼等が前言を翻すことは数えるに及ばず。古代より「綸言汗の如し」と言われ、国家の中枢にあるものはその発言が社会に与える影響・重みを理解し行動することが求められていましたが。民主党幹部はその程度のことも理解していなかったようです。
前言を翻すのが恥ずかしいのは政治家に限った話ではありません。匹夫であれ一度口にしたことを反故にするときには恥じるでしょう。しかし、民主党幹部はそれを恥と思うどころか開き直って「マスコミが悪い」「理解しない国民が悪い」だの責任転嫁するばかり。厚顔無恥とはこのことです。怒りを通り越して呆れてしまいます。
「恥」と「名誉」は他者からの判断を想定した基準であり、 仏教の八正道の規範(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)にはふくまれていません。 また、、儒教的規範の仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌にも含まれません。 仏教では、恥とか名誉にとらわれないことを教えているとおもいます。 吉田松陰の言葉に、 「僕は忠義を成すつもり、諸君は功業を成すつもり」というのがあります。 この場合、名誉も功業に含まれているとおもいます。 ルース・ベネディクトは、 「恥の文化」をある程度否定的にとらえていると思います。
ヒラリー・クリントンがオバマに「恥を知れ」といったことからでもわかるように、 ヒラリーのほうがオバマよりはるかに怪しげなことをします、従って政治家としてより有能といえるかもしれません。
「もともと宗教の影響が小さく、罪の意識が薄い日本社会から恥の意識を取り除けばどうなるか」という問いかけには同意しますが、 「恥の意識」は自立的な判断とはそぐわないと思います。
釈迦の言葉に「法をともしびとして生き、自らをともしびとして生きよ」というのがあります。 日本の文化に深く浸透していた仏教が、 今は消えつつあります。 さびしいことです。
それから、 英語でのSinとShameは悪の程度が違います。
Sinは人間の根源的な悪ですから、他人をSinnerだと非難することはないとおもいます。 もっとも、 原理主義者は酒を飲んだりタバコをすったすることはSinfulだといいますし、 一般にも、酒税やタバコ税をSin Taxといいます。
一方、 「Shame on You」というのは、 相手がヘマをやったときなどに、 軽くいうこともあります。
「Shame」のために腹を切るといったことは、 もちろんありません。
岡田さん、名誉や恥などという観念的なものを
基準とする人間を信頼するのは勝手ですが、
何を名誉とし、何を恥とするかは恣意的なもの
です。そんなものを現実の政治判断にもちこむ
ような人間を私は信頼しません。
恣意的であるが故に、それは罪にかわるもの
ではなく、恥知らずだという批判は、まったく
感傷的という他ありません。
それは批判というよりも、単なる好みの問題
でしょう。それを投票行動に反映させることは
自由ですが、大層な話でもありません。
政策に問題があれば、その問題点を具体的に
批判すべきです。そうした批判には反論も可能
でしょう。
しかし、恥や名誉にそれが可能でしょうか?
何を恥とし、名誉とするかという価値観は、
むしろ自由であるべきでしょう。
明文化されていないような恥や名誉によって、
政治が支配されるなどというのは悪夢という
ものです。暗黙の了解、空気による支配とで
も言うべきでしょうか。
そんなものの利用は、国家の権力から離れた、
個々人の具体的な生活場面に留めておいて
欲しいものです。
3.のコメントは1.wishborn2400さんに対するものです。
2.hiranarihashiraさんへ
清廉潔白と恥のないことはイコールではありません。またそれらは並置できる概念ではないと思います。したがって清廉潔白に関する議論は関係がないと思われます。
わたしは恥を知ることを首相の十分条件として述べたのではありません。つまり恥を知る人であれは首相として適切だとはどこにも言っておりません。
4.bobbob1978さんへ
同意します。また古めかしいですが、「武士に二言はない」であって、舌が二枚では困りますね。
やむを得ず前言を翻すときもあまり恥じる様子がないですね。
5.minouratさんへ
ずいぶん仏教や儒教にお詳しいですね。たしかに罪の意識が内面から規制になるの対し、恥は外面からの規制になります。とすると外面的な規制というのはバレなければやってもかまわないということになりますが、人の気持ちは必ずしもそうはなりません。従って恥の意識は外面ものとはっきり線を引くのは難しいと思います。意識の中では内面化することも考えられるからです。
岡田さん、恥や名誉などという相当にあやふやな
概念を使うことの問題を自覚していただきたい。
あなたのいう「恥」の概念そのものが恣意的なもの
である以上、他の方の「恥」の概念との違いがある
のは当然です。
自分の「恥」の概念はこうだというのは自由ですが、
他の方が「恥」という概念で捉えるのは別のもので
あり、どちらが間違っているというものでもない。
それは誤解とは別のものです。
無論、何を「恥」とするかについて、ある程度の
合意を形成することは可能でしょう。しかし、それが
明文化されるということもなく、政治に反映されると
いうことになれば、それは空気による支配という
べきものです。
恣意的な概念で政治を弄ぶのは慎むべきだと
考えます。
wishborn2400さんへ
一度言ったことを簡単に撤回する、寝首を掻く、恩を仇で返す、弱いものをいじめる、あからさまに公益より私欲を優先する。
このような行為は恥ずべきものだと私は考えています。恐らく多くの人も同じだと思いますが、wishborn2400さんはそうは思わないのですか。
何が恥であるか明文化されていなければ、それを基準にした批判をしてはいけない、といわれますが、これは理解ではません。法であればその通りですが、これは倫理の問題です。
基本的な立場が大きく違うようで、これ以上の議論は意味がないと思いますので、申し訳ないですが、これにて失礼致します。