日本人としての基本のキホン(土肥議員の竹島進呈報道に思う)

矢澤 豊

先々週、ここアゴラでは某テレビ番組におけるとある有名人の発言に端を発して、「国防論」が展開され、池田さんの「平和ボケから覚めよ」と続き、小幡さんの「そもそも国家というものの目的は...」という、ある種の国家論にまで「昇華」していったようです。

いまさら私がここで持論を展開するのも、石水さんをよってたかっていじめているようで気が引けますが、ちょうど民主党所属の土肥隆一衆議院議員がお隣の国に出かけていって竹島を進呈してきたという報道がありましたので、あえて一筆啓上させていただきます。


私が言っておきたいこと。それは「愛国心」とは感情の問題だということです。

自らが生まれそだった風土や、先祖がその足跡を残してきた歴史と文化に対して、他に別した特別な愛着を持ち、それに誇りをもつという心理作用は、これ全く個人の感情の問題であって、そこに「損得勘定」などといった合理性は介在せず、また介在させる必然も無い。「国家論」やら、「暴力として国家権力」などといった話をもちだす間でもありません。

たとえ領土問題の本質が、国家が大自然を相手に勝手に線引きして決めた不動産境界線を巡る不毛な争いだとしても、これを愛する祖国の一大事として危機感を持つことは、人としてやむにやまれぬ当然の「気持ち」です。

その正体の元をただせば、海にポツンと浮かぶ無人島のひとつやふたつであろうとも、ここで傍若無人の振る舞いに及んだ異国人に対し、昂然と怒りを覚え、またその背後に立つ隣国政府に危機感と対抗意識を抱くことを否定することは、個人の人間性とその感情を否定することに等しい。

「合理性を無視した感情論以外の何者でもありません。」

おっしゃるとおりです、石水さん。

こうした感情があるからこそ、イギリスはもうお荷物以外のなんでもなかったフォークランド諸島にカチコミかけてきたアルゼンチン軍を相手に大西洋を南北に縦断長駆して一戦に及んだのであり、シンガポールは自らを連邦から追い出したマレイ連邦を相手に、その飲料水の供給まで掌握されながら「今に見ていろ」と経世済民に励み、ついにはあの小さい島国がマレー半島とボルネオ島にまたがるマレーシアにGDPで追い抜くまでに成長したのです。

合理的な損得勘定でものを語れば、当初アメリカ政府にも軍事行動を反対されていたイギリスは泣き寝入りして、イギリス/アルゼンチン双方で900人あまりの戦死者という損失を避けるべきだったのかもしれません。あの時、本当に泣いていたリー・クワンユー首相は、マレー人優遇政策と言う不平等をのんで、マレーシアの豊かな天然資源を背景にした、今とは異なったシンガポールの繁栄という絵を描いても良かったのかもしれません。

より高次元の話をすれば、ジョン・レノンじゃありませんが、全ては妄執なのでしょう。「愛国心」とやらも、仏教が説くところの解脱すべき「愛別離苦」の一つでしょう。もしかしたらそう遠くない将来に、鄧小平も予言したように、「我々より賢い次世代が、お互いに納得する結論」とやらを導きだすのかもしれません。わたしもそうなってほしいと願う一人です。

しかし人類史上の現時点においては、我々は「国」という単位を通じて世界に参加しているのです。

そしてこうした「愛国心」という、やむにやまれぬ感情があるからこそ、「国民性」というものが生まれ、「○○人らしく」とか「○○人として恥ずかしい」といった倫理や道徳観念が生まれてくるのです。

もちろん抜き身の「愛国心」をふりまわす下品と野蛮は戒められなければなりません。このことに関しては以前のエントリー「 愛国心が必要とされる時」にまとめましたので、ご参照ください。

石水さんや土肥議員に代表される、日本のいわゆる「平和主義者」が国内的にそれほど支持されず、国外的には利用される以外は全く相手にされない日本特有の「ガラパゴス思想家」である理由は、自らの「愛国心という妄執からの解脱」を、同好の士と共に陶酔するのみにあきたらず、これを手前勝手に他人に押し付けようとするからでしょう。宗教家の行動としては理解できますが、現実を生きる普通の人、ましてや国会議員という公人の行動としては迷惑千万です。

このような特殊な思想を他の人々におしつけるだけでなく、日本国民に犠牲、自尊心の喪失、脱力感を強いて、その上こうした個人感情の抹殺に依拠した思想を、あわよくば我が国の外交政策のひとつの基軸にしようというのですから、いやはや恐れ入った始末です。

おせっかいを承知で土肥氏の為に図れば、早急に議員職を辞し、一個人として良心の命ずるがままに、その信ずるところの平和主義活動を追求されたほうが、国会議員などという妥協を強いられるキャリアに拘泥するより、より充実した悔いの無い人生を送る事ができるのではないでしょうか 。べつに極端な話をしているわけではありません。アメリカのアル・ゴアさんもどこかのインタビューで同様のことを言っておられました。アル・ゴアさんでは親近感が湧かないとおっしゃるのであれば、高山右近という一人のサムライの人生に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

コメント

  1. hogeihantai より:

    数年前、韓国で新紙幣を発行する際、独島(竹島)を表示した古地図を探したが何処にも無かったことが話題になったことでわかる様、韓国の主張には無理があります。現在韓国が実効支配し日本に取り戻す手段が無い以上、国益を考え戦略を変える必要があります。韓国在住の米国の弁護士の話では、竹島は国連海洋法の島と規定される要件を満たしていない唯の岩だそうです。従って韓国が主張するような排他的経済水域を設けることはできません。

    岩であれば韓国が所有しても日本の経済的損失は限られてます。ところが日本は竹島より遥かに小さい「沖ノ鳥島」も「島」と主張していることから当然竹島も「島」としています。「沖の鳥島」は誰が見ても岩です。これを島と主張すれば、領土全般に関する日本の主張の正当性を国際社会に疑われます。中国や韓国は沖ノ鳥島は島と認めておらず、将来の紛争の種をまくことになります。英国もフォークランド戦争で200年前自国領としたことを内心後悔したことでしょう。竹島、沖ノ鳥島は岩とすることが長い目でみると国益と思います。

  2. dff9c907 より:

    >「愛国心という妄執からの解脱」

    宗教家だから致し方ないということはないのでは。揶揄されているとは思いますが、宗教的に云っても愛国心は妄執、執着の類ではないでしょう。愛国心は親兄弟に類する愛情の発露かと思います。この政治屋さんは宗教家というよりも韓国の会議に参加してみたら圧倒されて署名会見しただけのことでしょう。国益を担う立場にある方のやることではありませんね。

  3. bobbob1978 より:

    「愛国主義とは祖国を愛することである。国粋主義とはその他を嫌悪することである。」(Le patriotisme, c’est aimer son pays. Le nationalisme, c’est detester celui des autres.)
    シャルル・ド・ゴール

    愛国心と国粋主義を混同して非難する人がいるのには困りますよね。

  4. mikmike01 より:

    1cmでも与えれば、国はなくなると人の言う。

  5. はんてふ より:

    >>アル・ゴアさんでは親近感が湧かないとおっしゃるのであれば、高山右近という一人のサムライの人生に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

    高山右近、六万石の知行を捨ててキリスト教に殉じた武将大名。国会議員の地位や財産は、石高で表せば数千石程度かと思います。日本に限らず、三国志などでも似たような話はありますよね。同時に、地位や名誉に非常に執着する「サムライ」もいる。

    他のエントリーのコメントで誤解されているかもしれませんが、私は国家を否定しているのではありません。ただ、家族の延長として社会があり、国家がある、というのは違うような気がします。国家、社会は家族や地域などの延長でなく、そのもので存在して意味があると思う。

    今回の地震で、静岡にも連鎖地震(東海大地震)があるのかと昨日不安な状態でした。その時にイメージとしてあったのは日本の国土地図。現地が揺れると5秒遅れで静岡も揺れます。この一体感はナショナリズム的なものだったと思いました。

    家族や地域に対する愛情は、それこそ自然発生的なものです。ですがそれだけではナショナリズムは育たない。それはやはり公教育によって成立するものであると思うのです。そしてその事は、ナショナリズムの正当性を貶めるものではないと思いますよ。

    私が昨日描いた「ナショナルな感覚」も、公教育の道徳教育だけでなく、地理分野の教育が影響しています。ナショナリズムが自然発生的なものでないからこそ、意外な人が強硬な平和主義(=戦争になったら、降参してしまえばいいのだ)を唱えたりするのではないでしょうか。強硬な平和主義者が「自然な感覚に逆らう」とまではあんまりですから。

  6. srx600_2 より:

    日本において国の概念は特別なものじゃなくて、家族や集落の延長線上にあるものだと思います。戦国時代に国といえば、越後や信濃のことを指していたわけです。

    「自然な感覚に逆らう」という意味を考えると、本能として縄張り争いは、人間が今の形になるまでDNAレベルで刻み込まれています。国家レベルのものから、職場での地位争い、金が欲しい、全部縄張り争いにしか過ぎないわけです。

    結果だけで評すると、強硬な平和主義は日本の破滅だけを叫ぶ、自殺願望者にしか見えません。憲法九条を拠り所にする平和主義は、近隣諸国に全く伝播していません。酷い言い方ですが、戦時中の精神主義とまったく同じ構造なんですよ。太平洋戦争が決した(思想の共有に失敗)ことに目をつぶり、同じ主張を繰り返す。原爆を落とされてからじゃ遅すぎる。

    別に平和主義を否定しているわけではなく、科学に基づいた方法を変えろと言いたいわけですよ。

  7. はんてふ より:

    srx600_2さん

    >>日本において国の概念は特別なものじゃなくて、家族や集落の延長線上にあるものだと思います。戦国時代に国といえば、越後や信濃のことを指していたわけです。

    そう、利益共同体という意味では、確かに「国は家族や集落の延長線上」だと私も思います。幕藩体制は、封建的な道州制度ですからね。そういう意味では、「国土なんかくれてやれ」的な発想は、「縄張り意識の欠如」という意味で「自然な感覚に逆らう」ものであると思う。

    私が書いたのは恐らく、家族論的な意味で「延長線上にない」という事だと思う。ひきこもりの人に社会や国家がないように、究極的には家族は反社会的であり、反国家的ですらある(=言論の自由により担保されているか)。

    皆さんのコメントを読みまして、反社会的である家族・集落から「国」を眺める、この視線を延長線と取るか、私の4に書いた内容と取るか、という違いでしかないと気付かされました。このあたりは、「何故、強硬な平和主義者に人はなってしまうか」という謎解きの部分であるかも知れない。強盗が入って嬉しいという人は流石にいないもんだから(=だから家族論も考える必要もあるという意味で)。

  8. alberich_green より:

      矢澤様がおっしゃるように「愛国心」は感情の問題であり、領土問題は特に感情が刺激されやすい問題だと思います。だからこそ私は領土問題では感情でなく勘定に基づいた議論を心がけるべきだと思います。これは感情に基づき議論では
          (1)解決の妨げになる
          (2)利権が生じやすい
    という理由からです。
      (1)に関しては、勘定は妥協できますが感情は妥協できません。このため感情に基づく”100点満点でなければだめ”という意見が強くなります。これは日本だけでなく相手もそうですから(日本が感情的な対応をすればますますそうまります)交渉時夜解決は困難になります。交渉ではなく実力による解決という点では、日本(北方領土、竹島)の場合は、予期しうる将来では実力による解決が成功する見込みは無視できるほど低いと思います。憲法による制約は無視したとしても、竹島の場合は(韓国も米国の同盟国なので)日本が行動しようとすれば米軍による”教育的指導”が行われるでしょう。北方領土の場合は米軍は教育的指導はないかもしれませんが積極的な支援もしないでしょうから旧ソ連軍ほど出なくてもロシア軍相手に日本単独で勝てる見込みは非常に低いと思います。それにイギリスの対応は紳士的(フォークランドを奪回後は撤退した)でしたがロシアは第二次大戦以来、”攻めてきたら倍返し”がモットーですから、北方領土を奪還したらその勢いで北海道の一部を占領しかねません。そうなっても先に手を出した日本を支援してくれる国がどれだけあるか疑問です。

  9. alberich_green より:

    今回の代議士の行為は感情だけでなく勘定の点からも問題があると思うので、感情の面から批判すべきだと思います。しかし例えば、
          ・竹島の領有権を放棄する変わりに漁業権を確保する
          ・北方領土を面積比で等分する
          ・北方領土の領有権を放棄する変わりに漁業権を確保する
    という提案は勘定の点からは考慮の余地があると思いますが、矢澤様はどのように評価されますか?
      (2)に関しては、勘定を無視するとどうしても建前の議論となり、後期あや経済性に問題がある議論が認められやすくなります(”愛国心は怠け者の最後のよりどころ”といった人がいたそうです)。例えば”××変換のためには国民の意識を盛り上げる必要がある”という理由で「××返還の会」という団体を立ち上げて国の支援(お金)で活動(生活)するというのは勘定の面からは問題がありますが、それだけに安易であり利権化しやすいと思います。また上記の提案のような勘定に基づく解決を図る場合は感情派を説得する必要があります。その場合に経済的な支援と引き換えに協力を得ることにすると、感情派ほど経済的Hな利益が得られることになりコレも利権の要因になると思います。
      北方領土返還を要求される方に伺いたいのですが、返還された北方領土に住んでいるロシア人にはどのような対応をすべきだとお考えですか?例えば
          (a) 在留を認めない(出て行ってもらう)
          (b) 在留外国人として(日本国籍を与えず)在留を認める
          (c) 日本人として(日本国籍を与えて)在留を認める
    のいずれが適当だと思われますか?

  10. はんてふ より:

    「国は家族や集落の延長線上」の反論の補足。

    神社合祀に関する意見
    http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/card525.html

    博学・南方熊楠の檄文。明治国家の形成のプロセスに目を向けると、小さな共同体を破壊して大きな共同体を再構築する、というプロセスが上記の文章から読み取れます。ただ南方は「利益という意味でも合祀は合理的でない」とも論じており、一筋縄ではないものを感じます。

    一国一城令
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%9B%BD%E4%B8%80%E5%9F%8E%E4%BB%A4

    江戸初期の国家形成。信濃国、越後国というより、一藩一城。神社合祀の例と同様、勢力の分散化を止め集約する事に、国づくりのプロセスと目的があるように思います。大名を弱体化させるという意義もありますが、網野善彦的な中世ユートピアの終焉でもあったように思います。

  11. srx600_2 より:

    >> はんてふさん

    共同体の構造が、単純な入れ子型だと思い込んでいた節があったので、少し納得しました。

    大きな共同体の中で、人が個人に分解されたら、国と結合が強くなるのか、それとも間に新しいタイプの共同体が発生するのか、集合論で記述できるかもしれません。

    誤:科学に基づいた方法を変えろと言いたいわけですよ。

    正:科学に基づいた方法に変えろと言いたいわけですよ。