私は大学で原子力工学を専攻した。だが卒業後は新聞記者になった。新聞社は私を原発記者にしたかったのだろう。最初の配属先は福井だった。若狭湾沿岸に原発が建ち始めた時代だった。
なぜ原子力を放棄したのか。よく聞かれた。信頼できない技術だからだ。いつもそう答えていた。信用できない理由はいくつもあった。放射性廃棄物を責任を持って管理できるのか。放射線から人間を守るのは容易ではない。いったん原子力事故が起きたら回復不可能な損害が出る。たくさん理由があった。大学で学んでそう結論づけていた。原発推進に協力する気はなかった。
支局時代は最低限の原発記事しか書かなかった。「大阪万博に原子の火」なんて書けるわけがない。当然、上司の受けはよくなかった。大阪に転勤する時、申し訳に「若狭湾は原発墓場になる」という記事を書き置きして転勤した。後で聞いた。福井でその記事が話題になったそうだ。だれが書いたのかと。
その後経済記者をしていたが、原発推進派の科学部から何度か誘いを受けた。うちに来ないか。再三断ったがスリーマイル事故の翌年科学部に移籍、2年間在籍した。スリーマイル事故でも科学部は原発は安全だという時代だった。科学部でも原発取材は断っていた。
チェルノブイリ事故の時は経済部で通産省キャップをしていた。それみたことか、と腹の中で叫んだが、地球被曝という取材班には協力した。
若いころから原発を必要としない社会は創れないのか。ずっと考えていた。情報社会になれば、エネルギー消費が減らせると信じてコンピューター社会やネット社会の取材をしてきた。自然エネルギーである太陽光発電にも期待した。1980年代中ごろ、米国で太陽電池の研究開発の現場にも行った。ハワイでは太陽光で発電した電力を売電する実験も見た。
太陽光発電の効率はまだまだ低かった。太陽光発電の効率が上がり、水を分解して、水素の燃料電池車を普及させれば、原発依存度も日本の石油中東依存度も減らせる。LNGにも期待した。LNGを利用すれば水素生産が増え、燃料電池も普及するだろうと考えていた。
だが太陽光発電の効率はいまだに15%程度。水素自動車はまだわずか。石油中東依存度は80%を超えている。
やっとCO2問題で、太陽光やスマートグリッドなどが社会的に注目されるようになった。電気自動車も生産されるようになった。だが、普及にはど遠い。逆にCO2を出さない原発が注目を集める時代になってしまった。私が理想とした技術の進歩は遅く、原発に追い抜かれてしまった。ネット社会の進歩は期待通りだったが、エネルギー多消費のデータセンターを生んだ。原発がわが国電源の主要プレーヤーになった。原発を止めれば停電確実な社会になってしまった。
そして今回の大震災。原発の安全神話は崩壊、周辺地域を放射能で汚染した。恐れていたことが起きてしまった。もっと早く太陽光や水素に依存する社会を創っておけばよかったが、後の祭り。ジャーナリストがひとりでがんばったところで、原発をなくすことはできない。社会が必要としているのだから。そう言い訳をしている自分が悔しい。鬼畜米英と世の中が沸き立っている時、戦争反対の記事を書くことは難しかったのと似ているのではないか、と考えるようにしても、やはり言い訳でしかない。
もう原発なんかいらない。いまならいえる。時すでに遅しである。
(反省をこめて、福島原発事故発生からわがブログに多くの原発関連記事を書いてます。ご覧ください。http://jun.typepad.jp/junhara/)。
コメント
原発は危険であり事故が起きれば環境を汚すものですが、じゃあ火力発電は安全なのかというと疑問です。2010年メキシコ湾原油流出事故で石油をばらまいたり、石油コンビナートで死者を出したり、いまだに石炭を使う火力発電があるのですが、そのための石炭発掘の事故で死者が出たり。安全を求めるのは正しいのですが、自動車事故で毎年1万人死んでいるからといって、自動車は使わないという選択はしていません。
しかし、今の原子力発電関係の体質は変えないといけないとは思います。
2度あることは3度ある。
JOC→福島原発ときて、その次の事故がこの程度で済むとは思えない。
あなたの記者人生と挫折感には興味がありませんが、長年エネルギー開発の歴史を見てきた人間として、これからどうするのがベターか?という意見には興味がありますので、もしよろしければ見解を記事にして頂ければ幸いです。
そうでないと、日本はともかく、世界ではこれからも原発が造られ続ける可能性があります。
御自身で書かれているように、「原発なんていらない」というのはあなたの主観で、社会のコンセンサスは未だ「原発はいる、でも自分の家のそばは嫌」だからです。
もっと早くNOをつきつければ良かったのですが……、まったく日本のマスコミは何をやっていたんだか、というところですね。
あるいは、原発に詳しい記者が、そのリスクとメリットを冷静に分析して公開していれば、安全装置にたいする見直しが行われ、今回のような事態は防げていたかもしれないと思うと、非常に残念です。
こう言う人が、いっぱしの反対論を書けるから、事故のあとは怖ろしい。
読めば歴然としているのは、単なる情緒論である。
全ての文明の進歩は、尊い犠牲の上に成り立つものである。そのことで、後続の人達は、寿命が延び、豊かな生活、何よりも多くの人が生息できるようになってきた。
事故は悲惨だ。ジェット機の進化に於いても、多数の事故の解析の結果、極めて事故の少ない機体や航空管制の進展を見た。橋の構造でも、建物の構造でも、強度設計の過去の進歩の歴史には、事故が充満している。
原発は事故を起こせない領域だから、設計が机上の論的な部分が多くある。しかし、今回の事故を詳細に見れば、人智を超えたことは何もない。制御のエネルギーの確保手段が、机上の論で設計されていただけだ。だから、事故回避の手段は簡単な領域である。情緒論は何ももたらさない。単なるデカダンスだ。
今回の事故の原因は、原発の危険性をチェックする機関が存在しなかったことです。
東電は安全だと叫ぶばかり。
保安院は危険性をチェックする機関だったが、技術者がいなくて、骨抜き。
あなたのように原子力工学を専攻した人が、きちんと危険性をチェックしてくれれば、今回の問題は起こらなかったでしょう。
いやなものからは目を背けるという態度では、危険を避ける道は閉ざされます。
ついでですけど、太陽光発電をしていれば、今日は雨なので、朝から晩まで発電量はゼロ同然です。その場合、輪番停電はありませんね。どこでも電力がゼロ同然ですから。
特に、夜には、電力が完全ゼロになりますね。そういう社会がお望みだったとは、恐れ入りました。
→ http://bit.ly/eswtm4
※ これは太陽光発電の説明です。
専門知識がないので素人考えですけど、
たしかに原発はハイリスクである。でも享受できるものも多い。
何か問題が起きたとき甚大であるのは飛行機・飛行機事故もいっしょじゃないでしょうか。墜落すればほぼ全員死ぬ。
でも、「だから飛行機はやめよう」、っていう人はいない。やはり便利だし必要だから。
飛行機事故は絶えないが、それでも日々安全を高め、先進国の航空会社では極めて稀になっている。
正直、現在の原発は安全対策が足りないのではないか、と思った。
津波で水をかぶったからバックアップの電源が動かず、冷却も出来ず放射性物質が漏れ出したり、なんて・・・
最初から「電気止まったらアウト」ってわかってただろうし、もっと複数の方法で電源を供給する対策が必要だったのではと。
もっと安全にできたのでは、と思うのです。
敷地全体をドーム状に覆って津波防止や放射性物質拡散防止とか。火力発電所を併設しておくとか。
民間企業だからコスパでとれる対策が限られてたのかもしれないけど。
飛行機事故もあってはならない事故だけど、原発事故は絶対にあってはならない事故だ。より高い「これでもか!」くらいの安全性を求めたい。
でも、原発も自然エネルギーが効率化するまでのつなぎ。技術革新で1日も早く原発に頼らなくてもいい社会になるのが一番だ。
JR福知山線脱線事故:死者107名
日本航空123便墜落事故:死者520名
鶴見事故:死者161名
桜木町事故:死者106名
三河島事故:死者160名
北炭夕張新炭鉱ガス突出事故:死者93名
信楽高原鐵道列車衝突事故:死者42名
北陸トンネル火災事故:死者30名
全日空機雫石衝突事故:死者162名
洞爺丸事故:死者1155名
天六ガス爆発事故:死者79名
二又トンネル爆発事故:死者147名
西成線列車脱線火災事故:死者189名
飛騨川バス転落事故:死者104名
全日空羽田沖墜落事故:死者133名
福島原発事故:死者0名
飛行機や乗用車にリスクがあることは誰でも知っている、けれど利便性と秤にかけてそれぞれ利用しているわけです。
原発の場合は個人が望まなくとも多数決で、しかも「絶対安全」という詐欺紛いの説明で押し切ってしまったわけで反対派の怒る十分な理由はあると思います(反対派も結局原子の火のもたらす恵みを少なからず享受したにせよ)。
家も仕事も故郷も失うとしたら、人命が失われなかったといって笑う気にはなれないと思います。その立場と秤にかけるなら
>夜には、電力が完全ゼロに
を選ぶでしょう。
原発事故の補償費用、廃炉にかかる費用、使用済み燃料の保管と廃棄にかかる費用等々含め原発の費用対効果が優れているというのは本当に議論の余地のないことなのでしょうか?
また、原発がコスト面で優れたエネルギー源だとして、コスト削減や効率化を目的とした運用をすることにも疑問を感じます。あるかないか分からない事態に備えた何重もの安全策は要するに平時における無駄です。医療の効率化を推し進めたところで病院は常に満床、スタッフは常に手いっぱいで救急を受け付けなくなったとかもありましたが、インフラを経済性を追求する一企業に独占させておくというのも心配です。
今回停電を経験して、電車の中も暗くていいし、
お店の中も暗くても全然OKだと思いました。
もっと節電いけるんじゃないかと思いました。
そんなことやってても全然足りないよ! と言われてしまうかも
しれませんが、今の暮らしをもっとダウンサイズし、使用量を減らす
という努力をしてもいいんじゃないんでしょうか。
あるいは電気料をダウンサイズして原発を減らしたいグループと
今まで通り原発を活用していくというグループに分けて
試験的に運用するというのはできないんでしょうか。
新しい原子炉を増やさず、うまくいけば、古くなった原子炉を
いくつか廃炉することにより、少し安心度を高めるということは
ぜひ実現ほしい。
先ず驚かされるのは、反原発への反論のコメントが多いことだ。
私も、学べば学ぶほどに、原発が嫌いになった。今では、原発はすべて廃炉にすべきだと考えている。
現に、大量の放射性降下物で広範な地域が、取り返しがつかないほどに汚染されているし、依然として予断を許さない状況が続いている。
今回の原発事故にしても、想定外の津波と言う理由を挙げているが、その事故の原因は、室内に解放されたプールに核燃料を保管し、その水を冷却し続けなければ猛毒の放射性物質が大量に大気中に放出されるとい極めて初歩的原理によって事故が起きている。
単に、電気が止まれば、間違いなく大爆発が起きる構造が放置されてきた。その命の綱のディーゼル燃料は、海岸の岸壁に保存されている。発電機は地下に設置されている。冷却ポンプは塩水に浸かれば運転できない構造である。
何とも杜撰としか云いようがない。
原発は、CO2による温暖化よりも遙かに深刻に地球上のあらゆる生命体に危害を加える。
代替えはSOFCです。もう完成しています。
技術や豊かさを一部捨て去るのも、人間の叡智ではないでしょうか。
それよりも大切なモノの存在を考えたら、手放すのはそこまで
、難しいことではないと思います。
街の彼方此方を見てみても、日本は電気が使われすぎであると感じます。
電気が少ないことは、そんなに怖いことではないと思います。
娯楽等に関しては、なければないでやりようはたくさんあります。レベルを落とすことは一部の方にとっては相当怖いことのようですが、すくなくとも自分にはそうする気持ちはできています。
もちろん、必要なところには確実になければいけないと思いますし、実際私も今、原発で作られたかもしれない、誰かが常に危険と引き換えに作り続けてくださっている電力をいただきながら、誰かにはどうでもよいかもしれないコメントをさせて頂いているのですが。議論に参加させていただきました。
代替技術も注力し進めれば必ずよいものがより早くできると思います。それには私たち全員の熟慮による正しい選択と必要だと思います。
道を間違える事よりも一度引き返してでも前に進むことが大切です。
あと、情緒のない人間などおらず、いるとすればそれはただの木偶です。不足している者はおりますが。
情緒だけでは信頼できませんが、情緒のない選択が社会を不幸にしている気もします。
駄文、失礼いたしました。
今回の問題は原発の安全性云々が問題ではなく、自分の家のごみは自分の家で処分しろということ。いたって単純な話。
東京が使う電気を作るためのごみを福島県に置いてたというのが問題。だから電気は使う自治体の敷地内で作るべき。そうすればすっきりする。
都市部の発展のために地方にごみを捨ててきたのが今回の問題。原発の安全性云々ではない。ベクレルとかシーベルトなんかどうでもいい話です。
私が驚くのは地震不感症の人が多くみられること。
津波で壊れても地震で原発が壊れることがないと未だに信じていることです。
今回の福島原発はたかが震度5強です。直下の阪神にも中越にも遠く及ばない揺れでしかありません。
多くの原発の設計が600ガル程度しか想定されていない中
中越の直下ではM6.7にもかかわらず1700ガルを測定しました。
想定を超える設計ができない以上M8級直下がどこでも起こりえる日本において原発などという時限爆弾をいくつも抱えることが日本史の中の1半世紀に異常なことなのだが。
これもまたM8原発直下の地震を被災しなければ日本は学ぶことができないということでしょうか?
原発設計に想定外の地震などという言葉が許されないことが証明された中、M8級直下の想定外地震を想定しての原発設計もまた経済的にも技術的にも不可能であることは原発技術者が一番よく理解しているでしょう。