悲しみを自粛する

松岡 祐紀

去年のちょうど今頃、箱根にいた。旅館にでも泊まって、のんびりしようと思ったからだ。そうしたら、深夜2時に妻の電話が鳴った。夜中の電話はたいてい不幸の知らせだ。やはり、案の定、妻の祖母が亡くなったという家族からの連絡だった。電話口からも嗚咽の声が漏れ聞こえてくる。突然、動脈瘤が破裂したとのことで、あっという間に亡くなってしまったという。

その知らせを聞いて、夜中に号泣する妻を見ながら、どうすればいいのか戸惑った。


自分自身も彼女の祖母とは何回かは会ったことがあったが、妻は子供の頃から社会人になるまで祖母と同居していたので、悲しみの大きさが比較にならない。

今、東北地方大震災で被災した人たちを見ると、そのときの気持ちを思い返してしまう。彼らの悲しみは自分には到底分からない。その悲しみの深さを推し量ることさえ出来ない。夜中に号泣して悲しみに暮れる妻の横に寄り添いながら、そっと肩を抱くことしか出来なかった時のような無力感に悩まされる。

悲しみはけっして共有出来ない。

共通の友人知人、家族などを亡くせば、ある程度は悲しみを分かち合うことは出来るかもしれないが、亡くなった当人との関係性はそれぞれに異なるので、その悲しみは孤独である。

今、日本全土を覆う「自粛せよ」という雰囲気に居心地の悪さを感じる。いつまで自粛すればいいのだろうか。彼らの悲しみは我々には決して理解出来ない。そのことを潔く認めて、いつもの生活を取り戻し、自分たちの仕事や趣味を通じて、間接的に彼らに貢献すればいい。

それでも人生は続く。

復興の道は長く険しい道になるかもしれない。そうであるならば、いち早く「表面的な自粛」こそ自粛して、平常時の生活を取り戻すべきだ。節電することも重要だが、歓送迎会を中止しても節電にはならない。おいしものを食べて、楽しい思いを自粛しても、被災した人たちの悲しみは変わらない。たくさんの人たちが楽しみにしていたようなイベントを中止することによって、人々から活力を奪い、ひいては経済に壊滅的なダメージを与える。

被災地以外に住んでいる我々は、「悲しみ」を自粛することによってのみ、彼らに貢献出来るのだ。

株式会社ワンズワード 松岡祐紀

コメント

  1. govubuge より:

    全く同感です。感動しました。

  2. sobata2005 より:

    100%同意します。
    僕も同じような文章書きました。
    しかし、あまりに見事に書かれていて、敬服し、感動しました。

  3. bellydancefan より:

    幸せな家庭だ。私は祖母が死んだくらいで泣きもしなしし悲しみもしない。悲しむ人がいたら同情して釣られてお悔やみの言葉をのべるのみだ。

  4. ksmo2011 より:

    もっと簡単に言ってしまえば悲しんでいる人に同情して悲しみを共有しようというのは、自分を美化するエゴイズムなのです。 無関係の他人の死は、他人の痛みがわからないように,本音の所で,無関係です。その事に正直で、正対して知って痛みや,悲しみを共有する自覚を持つことこそが正しい悲しみ方です。
     お為ごかしに悲しみの共有を強要し、自粛を強要するのは、暴力です。人にはそれぞれの悲しみ方があり,それぞれがぞれぞれの仕方でする悲しみの共有を認め合うことが、真の悲しみの共有であって欲しいと思います。
     自粛の強要は,あの、非国民と罵った構造と同じものです。
     それにしても、線量計も持たせず、十分な食事も休養も与えずに被曝させることを承知に作業員を追い詰めて体面を取り繕うとする東電の姿勢は,憤りしかありません。
     援助もせず、自粛などを強要する某都知事などには憤りしか感じません。
     今、心に浮かぶのは,「棄民」という言葉です。
     無能な政府が、寒さに震える国民をうち捨てています。
     原発従事者に、命を捨てて戦えとうち捨てています。
     避難を余儀なくされて、当てもなく放浪する国民を政府はうち捨てています。
      自粛など語る者達への、憤りに打ち震えます。