池田信夫先生のこの記事を読む以前は、不安は個人が抱えるリスクに起因するものであり、丁度コインの裏表の如き関係であると単純に考えていた。
率直に言って、リスクが大きければ不安も大きい筈と言う極めて単純なものである。しかしながら、この記事に触発され考えてみたが、リスクは科学的、工学的に分析可能で極めて定量的なものである。
一方、不安は記事にもある通り、恐怖や予期せぬ変化に過剰に反応し、時として理性と言う安全装置を吹き飛ばし暴走する。
この、リスクと不安の非対称性が原発問題を複雑にし、若しかしたら手に負えないものにしてしまっている可能性がある。
少し冷静に考えれば、原発が石炭火力に比較して殊更危険でないことは明らかである。核分裂を起こすウラン235と核分裂を起こさないウラン238との配合比率により、連鎖反応による核爆発など有得ない。
こういう知識があれば、少なくとも核爆発に就いては何の不安も本来持たなくて良い筈なのだ。
一方、石炭火力は余程しっかり排ガス対策、詰まりは脱硫、脱硝対策を施さねば、近隣住民に確実に健康被害が出る。
北京から帰国の東大教授、玉井克哉氏昨日の呟きが笑える。
天安門広場は黄砂がひどく、快晴でも空は真っ白。同行したアメリカ人、「ここに一日いると、一日寿命が縮みそう。東京行きたい」だって。
中国国内に於ける電源の約80%は石炭火力であり、排気ガスに含まれる毒性の強い硫化化合物、硝酸化合物と黄砂が結びつき複合汚染を起こしている可能性が高い。
冗談ではなく、こんな空気を吸っていたら寿命が縮むのは明らかだ。住民が騒がないのは、これが既に日常的な風景になっており、リスクをリスクとして正しく認識していないからであろう。
この話は決して他人事ではない。黄砂は風に乗って日本列島まで飛んで来る。結果、石炭火力が排出する、原発の放射能汚染等より遥かに健康被害をもたらす有害物質に日本が汚染されている。
何が言いたいかと言えば、住民の生命や健康被害へのリスクの大きさと、住民の不安の大きさがミスマッチしている可能性が高いと言う事実である。
それでは、日本は原発関連一体何処で間違えたのであろうか?
ところが地元や反対派は「リスクをゼロにしろ」と主張し、国と電力会社は「リスクはゼロだ」と言い張ってきました。このため、ちょっとした水漏れが起こるたびに、反対派が「やっぱり危険だ」といえば電力会社が「これは安全に支障のない『事象』だ」と言い張って情報を隠蔽し、相互不信が増してきました。
今後の日本のエネルギー政策を考える場合、原発を新たに建設することは当分は無理だとしても、既存の原発を止めることはできない。安全対策を講じた上で、そのリスクについて理解を求めるしかないでしょう。その場合、大事なことは、原発は危険だという今や自明の事実を前提にしてリスク負担を考えることです
ボタンの掛け違いは原発稼働に伴うリスクの中身とリスクの大きさ、そしてそれが負担可能である事を政府が国民に説明する事を怠り、リスクはゼロだと強弁し続けた事に起因すると思う。
結果、地域独占と引き換えに、政府の強い監督の下にある電力会社としてはこれに従わざるを得ず、原発はリスクゼロの如き事実と異なる宣伝をせざるを得なかったと言う所ではないだろうか?
どうもこういう汚れ仕事を電力会社に押し付け、二酸化炭素削減の成果であるとか、電源に於ける石油シェアの好ましい低下などの手柄を政府が独り占めして来た気がする。飽く迄推測であるが、この辺りが政府と電力会社のわだかまりと言うか、愛憎とでも呼ぶか、兎に角、一筋縄では行かぬ年季の入った捻れの背景にあるように思う。
次に問題を膨らませたのは、リスクの具体的中身と大きさをしっかり考えようとせず、漠然とした不安を膨らませるに留まった、国民の知的怠惰があると思う。
最後にマスコミの責任も大きいと思う。原発に限らず、石炭火力であれLNG発電であれ、可燃物を取り扱う以上はある程度のリスクは伴う。その意味、製油所、石油化学コンビナート、高温、高圧の化学反応を扱う化学プラントも同様で、リスクはゼロではない。こういう少し考えれば判る理屈を無視して、原発はリスクゼロ的なCMを流し続けた事は、実に罪深い行為と思う。CM考査など有名無実に違いない。
最近勝間氏のお詫びコメントがネットを賑わしている。私の理解する所、この方は先ず自己啓発関連本を書いたり、セミナーを準備したり、予め導線を貼った上で、若者の将来に対する不安を煽りに煽り、不安をネタにマネタイズに成功された方であると思っている。
今回どういう風の吹き回しか、原発に対する国民の不安払拭に回られた訳であるが、これは不安を煽るより遥かに難易度が高い仕事である。先ず第一に理論武装が必要だし、既に述べた通り、原発のリスクゼロは理論破綻している。
結果、勝間氏がリスクがないと説明すればする程、国民の不安が増大し、この事に勝間氏が不安を募らせお詫びコメントに繋がった様に思う。実に滑稽極まりない話である。
原発に話を戻せば、3.11以降で必要な事は国民がしっかりと原発と対峙し、確実に存在するリスクを見極め、撤退と継続の得失を精査する事と思う。こういう事をやれば、少なくとも原発に対する漠然とした不安は解消される筈である。
山口 巌
コメント
ある意味、不安なども全て含めてリスクだと思います。確かに国民全員が正しい原発に関する知識を持つことが理想的ですが、現状、国民が知的怠惰で正しい知識を持ち合わせていないのはどうにもできないし、不安はコントロールできない、この辺は現実的にすぐに変えることは非常に難しいでしょう、それなら、運がよければ不安によるリスクは0で済むが運が悪ければ不安によるリスクは無限大に膨れ上がる、と受け入れて、それに即した対応をするべきだったはずです、原発についてはその辺の認識が甘く、運悪く?不安が日常化されず、思いもかけない代償を払うことになってしまった、ということではないでしょうか?ただ、それはしかたがないことだとも思いますが。もし、不安による代償を防ぎたいならば、そもそもの不安要素が少ないようにしておくべきです、よって、不安をかきたてる要素を多く持つ性質のもの(原発や核など)は基本的に不利な技術ということではないでしょうか。(特に原爆などのせいで放射線に対して人々が抱くイメージは現状最悪といえるでしょう)
「リスクは科学的、工学的に分析可能で極めて定量的」という山口さんの意見には全く同意できません。スペースシャトルの運行が終わりNASAは「初期のシャトルの事故の確率は10%だった」と発表しています。つまり開発当初はリスクは遥かに低いと見積もっていた訳です。設計者はリスクの分析はしますが事故が(しばしば複数回)発生するまでは定量化は出来ないということです。
政府は地震予知に年間数百億の税金を費やしてますが、東大教授である米国人地震学者は地震予知は科学的に不可能で、可能と主張する地震学者は研究費が欲しいから可能と言ってるだけだと10年以上前から糾弾しています。地震予知の為の税金は被害を防ぐ為の防災に使うべきだと彼は主張してます。大多数の日本人地震学者と異なる(良心的な)この米国人地震学者に耳を傾け原発の防災に金を使っていれば福島の悲劇も防げたかも知れません。
地震の確率は正確には定量化できないから怖いので隕石の衝突のリスクように例えば100万分の1と定量化できれば原発を良しとする判断も可能でしょう。私は地震のない民主的先進工業国であれば原発は安全だと思いますが、いつ巨大地震が起こるか分からない日本でやるのは反対です。
おっしゃっていることはとても正論だと思います。原発問題や勝間さんの分析はとても納得させられました。しかし、根本的な問題を捉えていないといわざるを得ません。山口先生述べられている内容は、そもそも観念的で教科書の中の理論でしかありません。現実性というものが感じられないのです。リスクに過敏に反応する人間らしい行動を否定されても、人類が誕生してから人間とはそのような欠陥を持つ生き物なのです。原発の問題は経済問題と同じです。経済問題を科学的、論理的に捉えようとする経済学者がいくらとうとうと語っても、不合理で論理的でない人間の感情を制御することはできないのです。できないものはできない。そもそも人間の認識には欠陥があり、現実をありのままに捉えることができない。という認識論を前提に考えるべきではないでしょうか?
「ブラックスワン」という考え方があります。リスクや不確実性に対処するためにどう行動し、生きるのが懸命な方法なのかを語ってくれている名著だと思います。この著の中でタレブはこう指摘します。「リスクや不確実性を人間は予測することはできない。人間には未来だけでなく、過去すら正確に認識できない。それに対処するには、それが起こったときの影響を考えておくのことが重要だ。」と。原発事故の影響は未だに確定されていませんし、今後の最悪の状況を想定した場合どうなるのか誰にもわかっていません。つまり、原子力という科学そのものは発展過程で、過去の原子力事故から安全性の普遍的法則を導き出すには、データが足りないのです。
『原発稼働に伴うリスクの中身とリスクの大きさ、そしてそれが負担可能である事』とありますが、負担可能でしょうか。
私は現時点で可能だと思いません。ちょっと前まで原子力の素人なりに可能だと思ってましたが、専門家の意見を聞いて考えを変えました。
そのとおりだと思います。ある一定の仮定上では、リスクの定量化は可能だと思います。全て不確実性で説明しては、運任せになってしまう。
しかし不安の強さは、池田先生が指摘するように、人的バイアスによって変動する。
戦略の本では、コントロールする事を戦略と呼ぶそうです。恐怖や不安は、相手をコントロールしやすいし要因だし、相手の行動パターンも予測しやすい。相手が恐怖や不安の対象から逃げようとするか、改善しようと行動を取る可能性が、高いからです。推進派も反対派も意図的か無意識に、これらを使って支持者を増やそうとしていたような気がする。彼らのリスクは、政治的なことなので、本来のリスクと異なると思う。山口氏の指摘したとおりです。
> 国民がしっかりと原発と対峙し、確実に存在するリスクを見極め、撤退と継続の得失を精査する
私は、 これは不可能だとおもいますが、 これを可能とする方法でもあれば教えてください。
これをどうしてもやれといわれれば、 適当な作文でごまかすしかありません。 こうしたことを、どうしてもやれいわれた時には、 次のことを知っておくとよいです。
小さな失敗をすれば、 担当者の責任になります。 しかし、 どでかい失敗をすれば、 それは上層部の管理者の責任になりまり、 担当者は以外にもセーフかもしれません。
福島の事故の原因も大部分は過去の経営陣の責任ですが、 いま責任を追及されるのは現在の経営陣です。 実際の責任は下のほうにもあります。
これは、 煮ても焼いてもくえない古狸のざれごとです。