やばいぞ「日本」-原発の混乱を見て

北村 隆司

原発事故は日本の統治組織が機能していない事を、改めてさらけ出しました。
米軍のスピードと日本の対応の遅さの差は予想以上で、次々に原発事故対策器機が登場する米国の危機管理体制の整備には驚かされます。仙台空港復旧の早さの陰に米軍ありと思うと、米国の協力への感謝以上に、日本の統治機構の酷さに腹が立ちます。

真水の必要性を指摘したのも米国なら、いち早く横須賀から大型水バージを提供したのも米軍でした。その後、米軍バージの10倍近い能力のあるバージが静岡にある事が判り、大慌てで曳航するには2週間以上の遅れがありました。静岡の大型バージの建設許可を得るだけで、膨大な時間と書類を必要とした筈ですが、これ等の手続がまったく役に立っていないことも今回の事件は証明しました。


危機対応の弱さは行政だけではありません。高い放射能にさらされながら活動するロボット、高所から水を散布したり、写真撮影をするはしご車、汚染水の処理施設など危機管理に必要な高度な器機は英独仏からの輸入だと報道されています。

技術立国、ロボット王国であった筈の日本も、通常の状態で使う財の開発、研究は進んでいても、緊急時には全く目を向けていなかった事も知りました。行政に規制されるうちに、想定力も規制され、「まさかの危機」を想定する事が無駄と思う平和ボケが、日本全体に広まってしまったのでしょう。

日本の原発危機への対策を援助する為フランス大統領に同行して来た技術者は、東芝や日立の競争相手であるアレバの技術者であり、米国の専門家の多くもスリーマイルアイランド事件を引き起こした原子炉メーカーのバブコック アンド ウイルコックスの技術者でした。

次々に起こる「想定外」の連鎖反応の中でも、安全の心臓とも言うべき「原子力圧力容器」は過酷な条件に良く耐え続けました。この圧力容器は、日本製鋼室蘭製作所が持つ製鋼技術があって初めて可能になったもので、災害の拡大を防いだ陰の英雄として感謝しています。さすが、世界シェアーの8割近くを占め、アレバ社も頼りにしているだけの事はあります。

役立つ専門家を積極的に活用する米国やフランスに比べると、階級社会の弊害が色濃く残る日本では、原発を熟知した東芝や日立の様なメーカーの技術者は、東電から見れば所詮業者に過ぎません。その東電も、監督官庁の原子力安全保安院から見れば、不祥事や事故があるたびに説諭したり処罰する対象に過ぎない訳です。監督権限はあっても監督責任はないのが日本の官僚組織の特徴で、玄人が素人のボスに御進講申し上げ,ボスの限られた知識と都合で判断する官僚的組織は危機管理のアキレス腱です。

フランスや米国の様に、身分や権限に関係なく専門分野はその道の専門家の意見を尊重する習慣を日本が持っていたならば、福島原発もこの様な大事にならなかったのでは?などと想像を巡らしたくなります。

知識と見識には欠けても、権限を持つ原子力安全保安院を支配している幹部は、殆どが2年ごとに異動する事務系官僚で占められ、常に本省である経済産業省の顔を伺うのに忙しいのが現状です。物を知って居る人間がド素人の上司に報告する構造は、日本の会社組織にも共通した問題で、この様な官僚主義的な組織が存在する限り、日本の危機管理の将来は暗いといわざるを得ません。日米の原子力安全統治機構の違いを比較しただけで、日本の悲劇はおこるべきして起こった思えて来ます。

米国では、原子力推進機関としてのエネルギー省と政府から独立した規制機関としての「原子力規制委員会」に分かれ、規制委員会は原子力の技術、法律、広報などの専門家を委員会自身が採用した3500人弱の職員が権限と責任を持って規制に当っています。

一方、日本の場合は原子力・放射線の安全確保.やその利用及び安全規制は経済産業省、文部科学省、国土交通省などに分かれ、夫々が推進と規制について審議会や懇談会を持ち、更に実際の仕事は天下り先の財団法人や独立行政法人を抱えています。放射能には変りは無いと思うのですが、不思議な話です。

日本の原子力安全保安院の職員は800名強ですが、多くの財団法人や独立行政法人がぶら下る機構で、実人数や予算は皆目判りません。文科省も全く同じシステムで完全な二重構造の無駄の典型です。この様な、百害あって一利もない組織が、事業仕訳の対象にならなかった事が不思議です。

今後、二次被害の対策に入りますが、土壌検査、食物安全、健康管理、気象への影響、環境問題などが経済産業省、文部科学省、農水省、厚生労働省、国土交通省、総務省などが、国民をよそに、権限と予算を巡ってあらそいながら、夫々の御好みの「有識者」を動員して処理に当ると思うと気が遠くなる想いです。

地震や津波に対する日本の警戒報システムや日本人の対応は世界の称賛を浴びましたが、事が行政に及ぶと世界の評価は最低で、民間が築いてきた日本ブランドを傷つけた官僚機構の罪は誠に重且大なるものがあります。原発に対する日本の報道も酷いもので、原発事故処理を巡って「やばいぞ日本!」と思ったのは私だけでしょうか?

コメント

  1. minourat より:

    > 玄人が素人のボスに御進講申し上げ, ボスの限られた知識と都合で判断する

    メーカーでもこんなことがありました。 従来の方式を拡張して新しいシステムをつくることになり、 プロジェクトはその線に沿って進められました。 しかし、 そのうち従来の方式ではどうしてもうまくいかないことに気がついた人が、 苦労のすえ新しい方式を考え出しました。 しかし、上司は方向転換に賛成しません。 一週間のうち、 3日は技術的なことを考え、 あとの3日はなんとか上司を説得しようとしました。

    こうして、1-2ヶ月が過ぎましたが、 もともと、上司は本質的な問題は理解していないし、 プロジェクトにまともに取り組んでもいないので、 新しい方式を考え出した人は、 若い人たちとともに、 新しい方式でプロジェクトをほぼ完成させました。 それからは上司の出番です。 顧客への立会い試験などでは、 プロジェクトを中心になって遂行してきた人をプロジェクトから遠ざけました。

    さらに、 上司は、 自分が強く反対した新方式に関する特許の申請書と論文では、 筆頭著者となりました。

    これが、 最小の努力で最大の効果をあげる秘訣です。

  2. yeelee より:

    私の考えは反原発ですが、理由は先生のおっしゃる事と一致します。
    日本は地震国津波国であるのだから、他国より秀でた危機管理能力で、こういう極めてクリティカルなシステムのリスクをヘッジしなければなりません。
    しかし総論として、戦後日本は、ある一定以上の国が規制するべき規模のクリティカル・システムのリスクをヘッジする能力が劣る社会だと結論付けるしかありません。
    よって原発には反対なのです。
    日本の実態が極めて階級的な官僚社会主義であり、宇宙の物理法則を官僚理論でねじ曲げようとしてきました。官僚が合格印を発行したシステムが、その後の研究調査で物理法則的に安全ではないと判明しても、面子を守るために受理されない(元開発者の話)。だから古い原発ほど既存不適格の塊になっている可能性があります。
    この現代日本型のゼネコン体質は、高度成長期には成り立ったかもしれませんが、現代においては弱点でしかないと思います。