震災の議論は重要だが、批判と論争だけでは、思索による新しい発見は減ってくる。ちょっと落ち着いて、付加価値のある議論をしてみたい。
ということで付加価値である。池田信夫氏が推奨するマンキューだが、私もマクロの基礎は彼の授業だったが、人物、教科書ともに先生としては最高だ。典型的なアメリカン教授で米国人の学部生の人気は当時は絶大だった。
池田氏は自然水準を強調する。それは今の日本の政策および政策論争の担い手も需要政策にとらわれすぎているから、経済構造の本質を考えるとどうしても潜在的な供給能力を高めないことには始まらない、と言うことになる。
これはある意味、供給は需要を作り出すという古典派の考え方の系譜であり、マンキューはケインジアン系で、カテゴライズビューからすると合わないようだが、それこそ矮小化されたというよりは学問を無視して、勝手な政策論争をエコノミストでもない人たちがし続け、それを信奉してしまった日本の論壇のレベルの低さを物語っているのが、こういったカテゴライズビューだ。需要政策はケインジアン、逆はサプライサイダーといった分け方は生産的でない。
一方、今回の震災による経済危機は、野口悠紀雄氏も言っているが、サプライショックであり、デマンドショックと捉えて、金を回すために消費せよ、自粛は首を絞めるという議論は間違っている。
まあそんなに大袈裟に議論しなくても、需要刺激策は一時的に萎縮している経済を通常の状態に戻すという点では意味があるが、本質的に経済を成長させるわけではないということだ。だから需要を作り出すことは成長戦略にはならないし、そもそも戦略をうまくやれば経済が成長するというのは、何らかのいみで経済が機能不全に陥っており、その歪を解消してやれば、本来の経済に戻るというだけの事で、突然画期的に軍隊が強くなるように成長するわけではない。
だから需要政策に終始する議論は経済の本質的な成長とは無関係なのだ。
といいたいところだが、待てよ、というのが、今日の議論である。
本当に需要政策というのは意味がないのか。
ケインズが失業を相場の底打ちを待つことと同様の状態と捉えたのは素晴らしいが、それ以外では、失業を強調することは、政策として政治的にアピールしやうしからということに過ぎないのか。
そうではない。需要を喚起し、失業を減らすことこそが経済成長をもたらす。そのこれまで理論的に盲点となっていたこの論点を無意識に捉えていたのが、人々の職をくれ、job!と叫んでいることの意味ではないか。
失業対策は、社会政策として最も重要だが、経済対策としても最重要で、最高の成長戦略なのだ。






