広島、長崎の原爆記念館に足を運んだ人なら、「原子力」問題で感情が高ぶる事は理解できる筈です。だからこそ、原子力問題は冷静に考える必要があるのです。
にも拘らず、「地球上から真に核兵器を廃絶しようとするなら、平和利用も含めた核廃絶を実現する以外に道はない」とする「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」式の論議に賛同する人が多い現状は誠に残念です。
始末が悪いのは、池田、藤沢両博士などが、化石燃料に比べれば「原発」が比較にならないほど安全で、安価であると科学的、具体的にに説明しても「原子力は怖い」と言う個人の「感情」と、それに迎合する「空気」には「理屈」が通用しない事です。
それに加えて「人の生命を数字や経済の尺度で測る事自体」が怪しからんと言う論議があるかと思うと、センセーショナルな報道に迎合した政府までが「羹に懲りて膾を吹く」人気取り政策を打ち出すなど、原子力のあり方については全く噛み合っていません。
そこで、「化石燃料」が「人命の敵」であり、「原子力」が「人命の味方」だと言う観点からこの問題を見たいと思います。
「石油」と「原子力」の大きな違いは「石油」が戦争の要因であるのに対して「原子力」は、少なくとも現段階では、戦争の要因にはなっていない事です(「核兵器」は「戦争の手段」にはなっていても「戦争の要因」ではありません)。
「石油」が要因となって失われてきた人命は、数十万の犠牲者を出しても止まないアフリカと中東地域の戦争だけでなく、地球温暖化や海洋汚染による人的被害も、石油が要因となっています。
極論すれば、「石油」は世界最大の「凶悪殺人犯」だとも言えます。
「人命」や「環境」が大切だと言うのであれば、エネルギー源を多様化し、化石燃料依存体質から一刻も早く脱すべきで、原発の技術改良と発展は、再生エネルギーの進歩と共に欠かせない条件です。本来なら、反核運動家や環境保全派が団結して「脱化石燃料運動」と「原発の技術改良運動」に取り組んでも不思議ではないのですが、これ等のグループから聞こえてくるのは「反核」一点張りなのが、理解できません。
ある資料によりますと、年2回のCTスキャンで被曝する線量は、日本の原爆投下時の爆心地から2マイル(約3.2km)離れた場所にいた生存被爆者が被曝した線量とほぼ同等だそうです。
この様に、使用法によっては凶器になりかねないCTスキャン装置ですが、保有台数で世界でトップクラスを誇る日本のCTスキャン安全対策は、福島原発以上のお粗末さです。欧米では分離独立が常識の放射線を用いた治療と画像診断の両者が渾然としている日本では、一般医師の教育、専門家の育成や診療体制水準は大きな遅れをとっています。
最近のデータでは、国内の放射線治療施設は約600施設あるのに対し、放射線治療専門医は400人に満たないなど、ハードとソフトのミスマッチの酷さは目を覆いたくなる惨状で、量的には世界一を誇る施設の数も、その質はと言えば、欧米の基準に達した施設はわずか数施設に留まり、体制不備による国内での放射線過照射事故が続発していると言う事も耳にします。
だからと言って、CTスキャン施設付近からの避難やCTスキャンの廃止を求めたと言う話しは聞きません。事故が起きるとセンセーショナルな報道で国民の不安を煽るマスコミが、大型事故が起こらかった事をいい事に、厚生労働省の放射線医療政策の不備には全く触れてこなかった事が不思議でなりません。
それだけでなく、マスコミがこの問題で原発事故の報道と同じ様に国民を煽動したら、放射線医療は国民に忌避され、日本では救える命も救えなくなる危険すらあります。
原子力発電所というと、核反応の制御に失敗した場合の結果の重大さもあり、その安全性への危惧から断固反対する人が多数存在する事は理解できます。然し、石油が要因で失われている人命の多さを考える時、核反応の制御を安全におこなう技術を進歩させる事はきわめて重要です。一方、核技術は核兵器の開発へとつながると言うややこしい側面は認めなければなりません。
我々人類は、優れた科学技術を進歩させてきた反面、人間の心の問題の取り扱い方の進歩はかなり遅れています。国民が根拠もない風評に付和雷同したり、大量殺戮兵器だと知りながら政府が核兵器の開発をするのも、心の弱さが齎す弊害の一つかも知れません。
最近流行の「安全と安心」をごちゃ混ぜにした標語も、日本の病の一つでしょう。個人の主観である「安心」を、政府が保障するなど何処の世界出も聞いた事の無い冗談話です。これは又、国民を子ども扱いにするものであり、国民を馬鹿にしています。一方、現在の生活水準を落さずに、世界の安全を高めるには、再生エネルギーと原子力の改良による発展は欠かす事が出来ない重要課題で、人命尊重には原発は捨てられません。
コメント
数字に裏づけされた結果を信じる、というのはもっともな考え方だと思います、ただ、数字を信じるだけではなく、数字に裏づけされない情報を疑い、なおかつ、数字もその数字が妥当かどうか?を疑う、その数字が示された背景や素性も考慮する、という視点や、この数字からこのようなことが言える、という見解についてもそれが妥当かどうか?を疑う、という視点も重要だと思います。(例えば、資料から言えることはあくまでも「死者数は化石燃料よりも原子力のほうが少ない」ということであって、「原子力のほうが化石燃料よりもクリーンなエネルギー」とは書かれていません、あくまでもクリーンうんぬんに関しての主張は「数字から導き出される結論に関しての一意見」です)
数字の信頼性については、1つの数字ではなく様々な意見、立場の複数の別々の背景、素性の数字を比較検討してみてはじめて「その数字の信頼性が高まった」と言えます、「その数字からどのようなことが言えるのか?」についても同様に複数の様々な意見、立場の人達の見解を比較検討してみてはじめて「その数字からこのようなことが言える」という見解の信頼性が高まった、と言えます。
今回の一連の「数字を示した記事」は、「その数字からどのようなことが言えるのか?」という点について少々疑問に思います。信頼性の高い数字データをもとに数字から導き出される結論に関しての見解を挙げ、それについて推進、反対、中立、様々な立場の人達と議論しあって、その見解についての信頼性を高める、というプロセスが必要だと思います。
連続投稿ですみません、字数が足りなかったので・・・
今はまだ無条件に原発を推進していい段階にはありません、あくまでも議論中です。
ただ、現在の所、今回の事故で原発の想定外の事象に対する想定の甘さ、事前の事故対策や事故が起きた時の対応の不備、また、その根底には組織の構造的な不備があり、原発の運用とそれ以前に「日本において組織が原発を運用すること」に対する信頼性が著しく揺らいでしまったので、今のところは原発をあまりあてにはしないようにしておいたほうが良いように思います。
また、そもそも、事故のことを抜きにしても、放射性廃棄物の処理についてもこの先のめどがついていません。
そういったことを総合して考えると、感情的な観点、理屈的な観点、両方の観点から見て、今のところ原発は支持されているとは言い難いように思います。
もし原発が支持されることを望むなら、無理に意見を押し通すのではなく、また、人々の感情的な意見をただ笑うのではなく、きちんと推進派、反対派、中立派、すべての感情的、理屈的な意見に耳を傾けて、感情的な観点、理屈的な観点全て含めてきちんと議論し、その上で、原発推進の主張が人々の支持を得られるようにする必要があると思います。
漁業特区とか村井知事が提案されたとか・・
既得団体の反撃ののろしもすごかったけど、本気で漁業で東北を復興できるとでも思っているのだろうか?
所詮リアス式海岸の津浪に襲われる、大型船の接岸できない漁港、そんなものに何兆円も投資しても、もっと地方経済は疲弊する。とれた魚、子供たちに食べさせられますか、風評どころか放射能はもう海水に残念ながら拡散されたと思うほうが合理的でしょうね。
仙台付近に住んでいる人は、もう気づいている。今回水かぶった場所はもう住めないねって。
どうせこんな災害味わったら、それを吉として今後に生かしませんか。教育も訓練学校も医療も、原発中心とする。少しずつ原子力産業のサイクルのすべてを担う研究をおこなう。六ヶ所だろうが、女川だろうが、フクシマだろうが、いまさら若干放射能漏れたところで原因追求の材料となる。大きな問題とならない。
世界の原発の平和利用の最前線基地とする。
なんかそのほうが、もっとおおきな夢語れると思いませんか。
少なくとも原発との共存は、世界の関心事であり、まだ高次の共存例示した例はありませんから。
危険だからこそ、本気でやる。危険な体験味わったからこそ、もうほかの場所で起こらないように、先例になる。
補償だこうだのゼロサムゲームやってても自らが嫌悪感におちいるだけです。
個人的には一番冷静なのが多いのが国民だと思う。
政府も東電もメディアも学者も、国民に信頼されていないことをまず知るべきだ。
というか、その自覚すらろくに無いことが問題。
なぜ信頼されていないのかも分かろうともせずに、国民の無知によるもののせいだとするのが、一番情けない。
原発が火力よりも本当に安全なら避難なんてさせないだろう。
何を以てして安全というのか。
死人が出ていないからとか、タバコや交通事故で死ぬ人間の方が多いとか、その程度の詭弁を使う人間がいれば、なおさら信頼されなくなるだろう。
コストだって今回のような事故が起これば、ものすごい被害になる。
放射能の影響だって、因果関係の明確なもの以外は黙殺するし。