英語教育の具体的進め方

松本 徹三

先回の私の投稿に関連して井上晃宏さんのコメントが投稿されたので、今回はそれに答える形で具体的な手順を述べる。

先ず、「若い人達の英語能力の向上が必要と思っているのは世界的な活動を行っている企業なのだろうから、その企業が採用基準などを変えてそれを明示すればよい」という点については全くその通りであり、これを真っ先にやるべき事は言を俟たない。


しかし、現時点でこれをあまりはっきりさせてしまうと、一般能力は相当見劣りするが英語だけができる人を採用しなければならなくなったり、一般能力は相当あるのに英語が出来ない為に落とさなくならなくなったりして、企業が自縄自縛に陥る危険もあるので、慎重を期さざるを得ない。

企業は英語の重要性を繰り返し強調する、国や学校は全般的な英語力が改善されるように手を尽くす、この二つが並行して行われる事が必要だ。どちらが欠けてうまく行かない。

次に、「それでは英語力を改善する為には時間的に何を削るのか」という井上さんの質問に対しては、下記の様に明確且つ具体的にお答えしておく。

1)幼児向けは効果があるので、興味のある両親は「その他のお稽古事」の時間をこれに振り変えれば良い。(有名幼稚園が英語を「お受験」のアイテムに加えれば、あっという間にブームになるだろう。)子供達はゲームで遊んでいる時間を自習に振り当てれば良い。

2)小学校(3年と言わず、1年からが望ましい)向けは週1時間でも良い。これならあまり負担にはならないだろう。子供達はゲームで遊んでいる時間を自習に振り当てれば良い。

3)中・高生向けは、時間は今まで通りで良い。(何も犠牲にする必要はない。)やり方を変えれば良いだけだ。(高校では文法も少しは教えれば良いし、文学作品や新聞記事などを多く読ませることが望ましく、これは現状とあまり変わらないかもしれない。)

4)大学受験の英語は、当分間はこれまでの方法とTOEICを並存させれば良い。(新体制によって、聞く能力や話す能力は中学校まででかなり出来ている筈だから、案ずるより生むが早く、受験勉強の負担はさして増大しないだろう。)

5)大学では、いくつかの授業は外国人の講師によって英語で行われるようにし、必須単位を取る為にはこの授業をこなさざるを得ない事にするべきだ。授業のあり方も欧米流にする。事前に教科書を読みこなし、授業の時間は質疑応答と討論にあてる。自習をしていない学生は落ちこぼれ、卒業も出来ない。学生には相当の負担増となるが、遊んでいる時間とアルバイトをしている時間を削ればいいだけのことだ。(要するに、欧米や発展途上国の一部の学生と同じだけ大学での勉強に時間を使えばよいだけのこと。)

井上さんが指摘されている通り、日本では、明治維新の後先人達が非常な努力をして、大学で必要とされる程度のことは、全て日本語の教科書、参考書を使っての日本語の講義だけでできるようになった。これは偉大な事ではあったわけだが、英語力の涵養という点においては、結果としてこれが仇となっている。

得るべき知識や情報は時代と共に幾何学級数的に増大し、現在は、ネットで世界中のサイトをチェックして、膨大な情報の中から最も必要とされる的確な情報を選び出す能力が必要とされるようになった。日本語さえ出来れば今でも何とかはなるが、所詮は「何とかなる」程度にしかならず、世界水準から言えば見劣りするものになってしまう。

だから、大学では、その必要はなくとも、敢えて外国人講師を雇い、外国流の授業を行って、英語が必要となった場合の学生達の能力を諸外国の学生達の能力と同じ水準に持ち上げておく必要がある。つまり、敢えて明治維新の時点の状況に戻す事が必要だということを、私はプラグマティックな見地から申し上げているのだ。

そもそも、大学とは教授が研究をする為の場所なのか、学生を教育する為の場所なのかを、先ずはっきりさせる必要がある。その両方だというのなら、教授ごとにその双方のパーセンテージを決めておくべきだ。前者が100%の教授、准教授がいてもいいし、後者が100%の教授、准教授がいてもいい。

双方が必要なことは言を俟たないが、需要としては後者が量的には圧倒的に多いのだから、大学はこの需要に応えなければならない。学生を教育する場となれば、需要者(学生)が何を求めているかをはっきり理解した上で、プラグマティックにその方策を決めるべきは当然だ。