本当の「地域主権」とは?

松本 徹三

もう2年以上前の事になるが、私はアゴラに「今こそ道州制の導入を」という記事を寄稿した。「各省庁の仕事を全て電子(遠隔通信)化して透明性を徹底する」という議論も含んだ、何やら「ごった煮」のような焦点の定まらぬ記事だったことが恥ずかしいが、この記事を書いた動機は、「リーマンショック後の経済の停滞から脱却する為には、今こそ政治の出番であり、何らかの思い切った改革を行って、国家レベルでの意識の大転換を計るべきだ」という思いにあった。


そして、この背景には、当時の自民党政権が末期的症状で、適切な後継候補も見あたらなかったことから、「道州制を導入して国の権力の大きな部分を思い切って委譲し、異なった考えを持つ複数の大物知事に実績を競わせ、この勝者が国のリーダー(首相)に名乗りを上げるのがよい」と真剣に考えたことがあった。

税制度や社会政策を含む経済政策は、大別すれば「大きな政府型」と「小さな政府型」に分かれ、現状でも種々の考え方が拮抗していると理解しているが、異なった州が異なった政策を取って競争する形になれば、結果はすぐに目に見えた形で出てくるから、抽象的な議論をしているよりはずっと手っ取り早いとも考えた。

勿論、各企業も、どこかの州の経済政策次第では、海外立地を考える前にその州への移転を一つの選択肢として考えるだろうから、多くの企業が雪崩を打って海外に逃げていくといった事態も防げるかもしれない。経済政策ほどの影響力はないにしても、医療制度、教育制度の如何により住民の大量移住もあり得るから、ここでもそれぞれの道州は斬新な政策を競い合ってくれるかもしれない。そういう事も色々と考えた。

しかし、道州制の導入についての議論は、特にこれを推進する勢力が見当たらない事に加えて、これによって相対的に力を失う事になる各都道府県には反対する動きが顕著だったから、一向に燃え上がる気配がないままに今日に至っている。

その後多くの歳月が流れたが、現在の日本は、「経済の停滞」と「高齢化社会」という以前からの大きな課題を克服する目途が全く立たないままに、「大震災からの復興と「原発問題」という新しい大課題を抱え、しかも、政治的な求心力は自民党政権の末期以上に低くなっている。菅首相は既に国民の信任を失い、退陣についても自ら約束したが、次の内閣に何時どんな形でバトンタッチするかは全く見えていない。そもそも、次の内閣を担うリーダーのイメージすらもが湧いてこないのが現状だ。「大改革によるパラダイムシフト」の必要性が、2年前に比べても更に高まっている事は間違いない。

権限の地方への委譲は、特に異を唱える勢力もなく、今やほぼ国民のコンセンサスになっているといってもよいと思うが、どの程度の委譲を行うかについては、議論が全く詰まっていない。相も変らぬ too late, too little の「ガス抜き」思考で、格好をつける程度の委譲を行うのなら、やってもやらなくても殆ど同じ事だ。

原口一博元総務大臣の「地域主権改革宣言」という本の冒頭には、「『地域主権』というものは、『中央が持っているものを地方に分け与える』というパラダイムに基づく『地方分権』とは全く発想が異なる」とした上で、「『国』という言葉には『中央政府に対してはものを言うな』という『抑圧』が初めからかかっているから、あまり使いたくない」という趣旨のことが書かれている。全くその通りで、現在の枠組みで「国」と「地方」の関係を語っている限りは、もともと抜本的な改革にはなりえないと私も思う。

しかし、それでは、現在「国民」が「国政選挙」を通じて「国」に委ねている「国政」の大きな部分を、「地域住民」が「地方選挙」を通じて「都道府県」や「市町村」に委ねている「地方行政」が取って代われるか(或いは、取って代わるべきか)と聞かれれば、多くの人達は答に詰まるだろう。つまり「国」の成り立ちそのものを変える抜本的な改革が先行しなければ、「地域主権」等と言ってみても、所詮は言葉の遊戯に終わってしまうと私は思っている。

「地域」が「都道府県」では小さすぎて「国」に対抗できないから、「道州制」にして「国」と張り合えるような力を持たせようと考えている人達もいるかもしれないが、私の発想は異なる。(規模の大きな「道州」の首長になれば、松本龍前復興大臣のような人にも軽んじられずに済むのは確かだが、そんなことはどうでもよい。)

私は、この際、求心力を失う一方で、思い切った事は何も出来なくなってしまった日本という国を、一旦バラバラにして幾つかの「国に近い機能を持った道州」の「連邦」にし、「道州間の競争によって政策論の優劣を見極め、新しいリーダー像を確立していく」というドラスチックな提言をしたい。

長年日本を牛耳ってきた「官僚主権」に対する反発については、私も人並み以上に強かったが、かと言って、官僚を使いこなすことさえ出来ない未熟な「政治主導」で日本が回っていく等と考えた事は一度もなかった。事ほど左様に、有能な官僚がなくてはならない存在である事は言を俟たないが、官僚の間にも相互牽制と競争原理が働かねば駄目だ。道州間の競争は、政治家である首長間の競争であると同時に、彼等を支える道州官僚間の競争ともなるから、この点でも一歩前進になるだろう。

さて、そんなことを言っても、これから一気に「道州制」の議論が燃え上がり、遂に実現に至るといったようなことが起こるとは、流石に私も考えてはいない。実務能力を持った新政権確立の見込みすら五里霧中なのだから、所詮はこの記事も、実現可能性ほぼゼロの「真夏の夜の夢」の台本で終わることは勿論覚悟している。だから、夢物語の序に、私の考える道州制の概略を以下に披露させて頂きたい。

1)日本国を、「4州連邦制」(第1案)、または「1都7道州の連邦制」(第2案)で運営する。

第1案の四つの州は、北海道と東北に新潟県及び北関東の3県を併せた「東北州」、東京、神奈川、埼玉、千葉で構成する「首都圏特別州」、中部、近畿から、新潟県と兵庫県を除いた「近畿中部州」、中国、四国、九州、沖縄に兵庫県を併せた「西南州」で構成する。(連邦政府が必要とする施設は「首都圏特別州」が貸与。)

第2案の1都7道州は、東京都、北海道、及び、東北、関東(東京都を除く)、中部、近畿、中国・四国、九州・沖縄の6州で構成する。(連邦政府が必要とする施設は、東京都が貸与。)

2)「連邦国家」は、一院制の立法組織(連邦議会)と、連邦最高裁判所を含む一定の司法組織、及び、一定の権限を持った連邦行政組織から構成される。「連邦国家」の首班は内閣総理大臣(首相)であり、天皇は「連邦国家」の象徴である。各「道州」の首班は知事であり、各道州はそれぞれに三権分立を確立する。

3)日本国民(個人と法人)の権利義務を定める全ての政策の立案と執行の権限は、連邦政府と道州政府との間で切り分けられる。(道州を欧州各国、連邦政府をEUに見立てて切り分けを行う。)但し、外交政策と防衛政策、及び国家金融政策は、連邦政府の専決事項とする。(従って、連邦行政組織には、「国土防衛隊(軍)」と「連邦警察」、日銀及び全国の指定金融機関に対する監督権限を持つ「金融庁」などが含まれる。)税は全て道州が徴収し、連邦国家の経費は各道州から拠出される。

フーム…。とても実現するとは思えないが、こうなれば本当の「地域主権」と呼ぶにふさわしいだろう。