以前の私の記事「原発事故を哲学的に再考する」に対して、池田信夫さんから「原発の国有化」という記事のかたちで、レスポンスをいただきました。その池田さんの記事や、私の記事に寄せられたmi3cadukiさんからのツイートを読んで、私の議論が、(「リスク」と対比された意味での)「不確実性」や、ナシーム・ニコラス・タレブの説く「ブラック・スワン」と深い関連があるらしいことを知りました。
そこで、(大変遅まきながら)タレブの『ブラック・スワン』をはじめとして、いくつかの文献を読み、「ブラック・スワン」や「不確実性」についていろいろ考えをめぐらせてみました。以下、その考察のとりあえずのまとめです。(投稿までにけっこう時間が経ってしまい、やや遅きに失した感がありますが…)
タレブによると、「ブラック・スワン」とは、下記のような特徴を備えた事象を指すようです。
第一に、異常であること。つまり、過去に照らせば、そんなことが起こるかもしれないとはっきり示すものは何もなく、普通に考えられる範囲の外側にあること。第二に、とても大きな衝撃があること。そして第三に、異常であるにもかかわらず、私たち人間は、生まれついての性質で、それが起こってから適当な説明をでっち上げて筋道をつけたり、予測が可能だったことにしてしまったりすること。
(タレブ『ブラック・スワン』より引用)
つまり、「ブラック・スワン」は、それが実際に起こるまでは、私たちの想定の範囲外にあり、かつ、それが起こった後でしか理解可能にならないもののことです。(この、事後的にしか言及可能とならないという事態は、私が件の記事の中で、「過去化した未来」と述べたことに近いと思います。)
しかし、タレブの言うように、もし「ブラック・スワン」が、それが起こった後でしか言及可能にならないものであるなら、私たちはそもそも、「ブラック・スワン」に事前に備えることなどできるのでしょうか?それは、思考しえないことを思考することに相当するような、ほとんど不可能なことではないでしょうか?
タレブは、その不可能を可能にする方法の一つとして、ブノア・マンデルブロの「フラクタル」に注目しているようです。タレブによれば、「ブラック・スワン」のような事象の発生は、ガウスの正規分布(ベル型カーブ)よりも、マンデルブロのフラクタル分布(べき乗分布)になることが多いそうです。
しかし正直に言って、フラクタルの考えが、「ブラック・スワン」に対処するに十分な方策を与えてくれるのか、やや疑問に思います。タレブ自身も、その不十分さを自覚しているようで、フラクタルで扱えるのは灰色の白鳥に過ぎず、黒い白鳥については「厳密な答えは出ない」と、件の本の中で書いています。
このフラクタル以外に、数学や自然科学、経済学などの分野で、「ブラック・スワン」に対処することを可能にする方法論があるのか、私は寡聞にして知りません。
一方、ヨーロッパの哲学や神学のフィールドでは、思考不可能なものを思考するための試みを、いくつか挙げることができます。
例えば、「否定神学」では、神は人間の理性を超越する存在であるがゆえ、肯定的に語ることはできず、否定の契機を通じてのみ、語りうるとされます。(タレブの説く「ブラック・スワン」も、この神同様、否定のプロセスを通じてのみ、言及可能となる類のものだと思います。)また、ハイデッガーの「存在」をめぐる思想や、デリダの「差延」の哲学も、語りえないことを通じて語るという試みを遂行する点で、否定神学に近いニュアンスを持っていると言えます。
もう一人、キルケゴールも、言葉のしくじりにおいてしか語りえないものを、なんとか語ろうとした哲学者です。彼は、名付けえぬもの=神(=「ブラック・スワン」?)のような「絶対的に異質なもの」は、悟性をその限界まで追いやることによってしか、垣間見ることはできないと考えています。それは、理性や道徳を一時的に宙づりにすることによってしか、把握できないものなのです。
その状況はアブラハムにもほかの者たちにも絶対に理解不可能だ、とキルケゴールは言う。絶対的異質性は理性も道徳も乗り超える。その異質性は、ニーチェの言う「善悪の彼岸」である。(中略)質的異質性は理性に自分を把握させないから、絶対的異質性は言語に絶したものである。キルケゴールにとって、神は語らないことによって「語る」。神がノットを語るという意味でのこのノット―語りは、必然的に理性に不快な思いをさせる。
(マーク・C・テイラー『ノッツ nOts』より引用)
では、このような「絶対的に異質なもの」(=ブラック・スワン)に対して、私たちはどのように対処すべきなのでしょうか?
キルケゴールは、私たちは、後先見ない「決断」によって、それに対処するしかないと考えているようです。
この侵犯は、理性的思惑の結論ではなく、ひとつの決断の結果である。理性、道徳が一時的に宙づりにされることによって引き起こされる恐ろしい不安のまんなかにおいてくだされる決断の結果なのだ。決断はみなそうなのだが、この決断もある種の切断をもたらす。
(中略)キルケゴールによれば、決断というものは例外なく、全く後先見ない飛躍にほかならない。理性的思考と道徳的法則は人を分かれ道の分かれ目のところに連れてゆくけれど、決断をくだすように促すことはできない。
(前掲書より引用)
このように、絶対的に異質なものに対処するための決断とは、理性や道徳が宙づりにされた状態でなされる全く後先見ない飛躍であり、ある種の狂気をはらんだものであると言えます。
このことを、具体的な事例で考えてみます。政府は去る5月6日に、中部電力に対して浜岡原子力発電所の運転停止を要請し、それによって浜岡原発は実際に停止しました。この要請を、当時「非科学的だ」とか、「法治国家にあるまじき暴挙」などと非難した人も多かったと思います。そのような非難に一理あることは認めますが…。しかし、「東海地震」のような「ブラック・スワン」に真剣に対処しようと思うのなら、このような後先見ない飛躍=決断が必要とされることも事実なのです。
そして何より重要なのは、上述のような決断を非難する人たちが依拠している科学性や法理、そしてその根拠となっている理性や道徳という原理の多くが、そもそも、後先見ない飛躍=決断によってもたらされたものである、ということです。(もちろん、全てではありませんが…)
例えば、上述の原発の例でいえば、原子が核分裂反応するときに放出するエネルギーを利用するという技術は、第二次大戦中に、合衆国の最高権力者であったルーズベルト大統領によってなされた、ある種の狂気をはらんだ「決断」(マンハッタン計画の開始)によってもたらされたものです。また、唯一の被爆国であり、核に対して極度のアレルギーを持っていた日本が原発大国になったのも、アメリカの意向を受けた正力松太郎ら当時の日本の権力者たちの、狂気にも似た過去からの切断=決断に、その起源を持っています。
理性と道徳という当の原理それ自体が、理性的でも道徳的でもないいろいろな決断がもっているひとつの機能である。理性と道徳の彼方にあり、また善悪の彼岸にあるあの決断も、「創成の暴力」のようなものを包含している。この「暴力」は「始原の前の」ひとつの決断にほかならず、この決断を通じて、もろもろの差異が理性と道徳のなかに、またその二つの間に生まれてくる。
(前掲書より引用)
もしかしたら、今の日本の最高権力者である菅首相の「脱原発宣言」という後先見ない「決断」(広島での平和記念式典で改めて表明されたそうです)が、次世代の新たな理性と道徳を準備する「創成の暴力」となりうるのではないか…、(大方の人たちの見方に反して、)私はそういう期待を持っています。