「歴史教育」の必要性とそのあり方について

松本 徹三

あの戦争は本当に避けられなかったのか? 毎年8月15日の終戦の日には、やはりその事を考える。

私の場合は終戦当時5歳で、疎開先の栃木県で大人達と一緒に玉音放送を聞いた。東京で何度も空襲に会い、手作りの貧弱な防空壕に飛び込んだり、母親に手を引かれて逃げ惑ったりしたことも憶えているから、現在の大多数の日本人とは異なり、一応は戦時中と戦後の両方を体験した最後の世代と言えるかもしれない。しかし、そんな違いは五十歩百歩で、戦争というものの本当の悲惨さや残酷さは、実際にそれを体験した人ではないと分からないものだろう。


この土曜日と日曜日に、NHKのBSで二日連続で「日本人の戦争」というドキュメンタリー番組が放映されたが、とても感銘深いものだった。実際にそれを体験しながら辛うじて生き残った人達の生の言葉を伝えるこの様な番組は、極めて貴重だと思った。こういう番組を見るにつけても、「あの戦争がどんな経緯で引き起こされ、多くの人達にどれだけの災厄をもたらせたかを、全ての日本人が正確に理解し、何時までも記憶しておかねばならない」という思いが、私の心の中ではより一層強くなった。

次代を背負う若い世代にとっては、この事は更に重要だと思うのだが、現状では、若い人達がその事について深く考える機会は殆どないのではないかと思う。本当の話かどうかは分からないが、ある人が電車の中で次のような若い人達の会話を聞いたという。

「お前、知ってる? 昔、日本はアメリカと戦争したんだって。」
「マジかよ? ウッソだろ。」
「本当だよ。」
「それでどっちが勝ったの?」
「知らねえよ。引き分けだったんじゃないの?」

「歴史教育」の問題は、日本と中・韓の間では未だに喉に突き刺さった棘になっている事がよく知られているが、日本人の間でも相当異なった意見があるのも事実のようだ。私の周囲でも、軍国主義時代の日本を「全否定」はしたくないという心情を持った人達は結構多いようで、こういう人達は、私が「歴史認識」の問題についてごく普通に中・韓の立場に立った発言をしただけでも、目の色を変えて反論してくる。

だからこそ、「歴史教育の問題には日本はもっと本気で取り組まなければならない」と、私は本気で思う。意見の相違があるなら徹底的に議論すべきであり、曖昧なままにしておくのはよくない。私がそう思うのは、中国や韓国との関係を配慮するが故だけではなく、日本人自らの為にも必要だと思うが故だ。

確かに、江沢民が推進した「抗日戦争に殊更に脚光を当てる教育」や、「親日派」イコール「裏切り者」と教え、「国際社会が『東海(日本海の韓国名)』を未だに『日本海』と呼んでいるのは怪しからん」と叫ぶ「韓国の過敏さ」に反発する「普通の日本人」の気持は分からないではない。「日本が近隣諸国で行った事の全てが『悪い事』であったと決め付けられ、日本だけが目の敵にされて『謝れ、もっと謝れ』と繰り返して難詰されるのは、もういい加減に終りにしたい」という気持も分からないではない。「純粋に国の為の戦いと思って死んでいった人達」も含めた多くの人達が祀られて靖国神社への参拝を批判されると、「『魂』というものを理解しない外国人による内政干渉ではないか」という思いをもつ人達がいることも理解は出来る。

彼等の言い分を代弁するのは容易だ。「モンゴル人は今なおジンギス・ハーンを英雄視しているが、彼は多くの国に侵攻して住民を皆殺しにした張本人なのだから、モンゴルの首相は、本来はロシアや東欧、中近東諸国を歴訪して、今なお謝り続けなければならないのではないか?」「日中戦争以上に理不尽なアヘン戦争を仕掛けた英国に、何故中国は謝罪を迫らないのか?」「原爆投下や焼夷弾による大空襲で、南京大虐殺をはるかに超える数の無辜の市民を大量虐殺した米国の行為は、何故許されるのか?」「殆ど抵抗する軍事力を持たなかった新疆ウィグル地区やチベットに一方的に侵攻した中国(中共)軍の行為をどのように正当化するのか?」等々だろう。

しかし、「他にも悪い奴がいる」からといって、「自分は悪くない」という事にはならない。だから、この人達のこういう議論からは、建設的な結論は何も出てこない。

先の大戦の総括としては、普通の理性を持った「普通の日本人」の理解は、大体下記に集約されるのではなかろうか?

1)当時は世界の潮流が「植民地獲得競争」だったのだから、日本が遅ればせにこの競争に参加し、欧米諸国の真似をして、たまたま後進的だった隣接する国や地域を植民地化しようとした事自体は、それほど非難されるには値しない。

2)しかし、日本は世界情勢を理解出来ず、結果として国際社会から孤立し、極端な「力の信奉」へと走った。「生産と補給」が全てを決める近代戦を十分には理解せず、自らの特異な「精神力」を過信した上、英米人や中国人が持っていた「日本人のものとは異質な精神力」を軽侮して、墓穴を掘った。

3)当然の帰結として戦争に敗れると、当然の事ながら戦勝国は自らの判断によって正邪の別を決め、敗戦国の日本は、納得出来ると出来ないに関わらず、その全てを受け入れざるを得なかった。なお納得は出来ていないが、これは「仕方がない」事だ。

言い変えれば、こういう事にもなるのではないか? 

「日本人は別に悪くない。しかし、馬鹿な戦争をしてボロ負けした。負けたのだから仕方がないが、何時までもそれを引きずっている必要はない。戦争で死んだ人、悲惨な目に会った人は気の毒だったが、もうその事は忘れたい。」

しかし、私は「この様な総括の仕方は良くない」と強く思っている。日本人は、一定の方向が見えていると相当に思い詰めるが、方向が見えなくなってしまうと、驚くほど簡単に「まあまあ」ムードに転換する傾向があるように思う。従って、今回の大戦の総括も、ドイツ人のように明確にはせず、多くのものを曖昧なままに残しているように思える。責任の追及も甘く、反省も甘い。だから将来への指針も明快になっていない。(だから、隣国の中、韓がこの様な状況に不安を感じるのも、私には十分理解出来る。)

戦争やテロという暴力行為も、核のような危険な技術の存在も、人類にとって避ける事の出来ないものであるから、我々はそれにどう対処するかを常にきっちりと決めておかなければならないし、それがもたらす危機が眼前にあれば、あらかじめ確立された理念に基づいて、断固としてそれに対応しなければならない。しかし、「過去に起こったことを直視し、徹底的にその本質を究明することを回避してきた」日本人は、唯ひたすらに「戦争反対」「核反対」という空疎な言葉を漠然と繰り返しているだけだ。このままでは、将来重要な局面に直面した場合は、確固たる考えもないままに、刹那的な対応をしてしまいかねない。

「何が良く、何が悪かったのか」の厳密な評価は後回しとしても、はっきりしている事が一つある。「日本は昭和の初期に国家政策上の大きな『過ち』を犯し、その為に、日本人、外国人を問わず、多くの罪のない人達が殺され、この上なく悲惨な目に会わされた。このような『過ち』は決して繰り返してはならない」ということだ。しかし、「では、どうしたらあのような『過ち』を繰り返すことが防げるか」という「方策」が、現在の日本では真剣に考えられているとはとても思えない。

先ず真っ先にやるべき事は、日本の将来を担う若い人達に事実関係を正確に伝え、自らの「頭」と「心」でその評価をきっちりとさせることだ。これは、とどのつまりは、「本気で歴史教育をする」という事だ。

そして、この様な「歴史教育」の中では、かつての「皇国史観」も反面教師として紹介されるべきだと私は思っている。「皇国史観」は、どう考えてみても、事実の裏づけに乏しい身勝手な歴史観だったと私は思っており、それが日本人にもたらしたマイナスは大きいと考えている。私は、例えそれが「民族の誇りを守る為」であるとしても、「自国民の優位性を殊更に強調し、その分だけ他国民を侮蔑する」が如き教育はするべきではないという考えを持っており、この事は世界各国の政府にも訴えていくべきだとも思っている。

逆に、若い人達に対し繰り返し強調すべきは、「相手の立場に立つ事」の重要性だ。これは人間が人間らしくある為に必要なだけでなく、国家政策を考えたり、ビジネス戦略を考えたりする上でも必要な事だから、十分に教えておくべきだ。「自分達とは異なる文化を認めず、自分達と少しでも異なっていたり遅れていたりするものは、容赦なく攻撃や苛めの対象にする」といった事は、残念ながら人間のもって生まれた本性でもあるようだが、だからこそ教育によってこれを正すべきであり、間違ってもこれを煽るようなことはあってはならないというのが私の考えだ。

人間(民族、または国と言い変えてもよい)には、誰にでも良い点と悪い点がある。相手もまた然りである。それを率直に理解し、お互いに認め合う事が、争いを避け、協調の実を結ぶ事に繋がる。自分や自分の国の悪い点や過ちを認める事は、決して楽しいことではないが、是非ともやらなければならない事だ。これは「自虐」ではなく、人間や国としての「公正さ(フェアネス)」の証だ。

現在、中学や高校では「日本史」を教えていると思うが、卑弥呼から始めているので、明治維新のあたりで大体時間切れになってしまっているのではないだろうか? だから、「日本史の授業は順序を真逆にして、現代から遡って教える」と決めて、先ずは現代史を学ぶ時間が端折られないようにすべきだ。また、若い人達の感性に直に訴える為にも、教材には画像や映像をふんだんに取り入れて、臨場感をもたせることが必要だ。

当然の事ながら「どう教えるか」についての議論は沸騰するだろう。「侵略」という言葉を使うか「進出」という曖昧な言葉でお茶を濁すかでさえ議論が沸騰したのだから、簡単にコンセンサスが取れるとはとても思えない。しかし、だからこそ徹底的な議論が必要なのだ。生徒達に対しては、異なった立場の人達の議論を並行的に伝え、「ディベート」も積極的に導入すべきだ。

ディベートには、中国や韓国、更には米国やフィリピン等の若い人達の参加も求めるべきだ。各国から選抜された人達が、公正なモデレーターのもとで自由に議論する。その場面は映像として各学校に配信され、クラスルームではそれをベースに議論を行い、自らの考えはインターネットを通じて発表出来る様にする。やって見なければ分からない事ではあるが、この様なプロセスを丁寧に積み上げていけば、全ての考えが統一される事はなくとも、多くの事について一応のコンセンサスが得られる事は、十分に期待出来ると思う。

この様なやり方をすれば、「教科書問題」という名の紛争は最早なくなるだろう。そもそも一つの考えに決め打ちした「教科書」で若者達を教育しようという考え自体が傲慢だとも言える。今は、国境を越えたインターネットが世界中の若い人達の間に浸透して、大きな力を持つに至っている時代だ。教育者はウィキペディアの編集者の苦労に倣い、事実関係の記述には正確を期した上で、異なった考え方や解釈は並行的に分かり易く紹介して、最終判断を若い人達に委ねるべきだ。