脱原発という「空気」

池田 信夫

最近の原発をめぐる異常な空気は、昔どこかで見たことがあるなと思って、山本七平の『「空気」の研究』を読みなおして驚きました。この本の主題は日本軍の空気ではなく、この本の出た1970年代の日本の空気、特に公害問題をめぐる政治的な空気なのです。


当時、学生だった私にとっては、文春や産経にしか出ない山本は、マイナーな「右派知識人」でした。彼の日本軍についての詳細な分析には感心しましたが、軍を憎む彼が平和を唱える左翼を批判するのには違和感を覚えました。しかしよく考えると、かつての日本軍の体質を戦後に継承していたのは、「革新陣営」だったのです。

その象徴が、公害対策基本法をめぐる問題です。1967年に基本法ができたときは、その第1条(目的)に「経済の健全な発展との調和を図る」という規定があったのですが、野党やマスコミが「公害の防止に経済との調和を考えることは不適切だ」と批判したため、この条文は1970年に削除されました。

当時、ダイオキシン、カドミウム、有機水銀などが騒がれ、こうした有害物質を微量でも含む商品はすべて禁止されました。中西準子氏も指摘するように、こうした有害物質の摂取量はきわめて少ないので健康への影響はほとんどないのですが、少しでも検出されるとマスコミが大騒ぎするため、多くの化学製品が使用禁止になりました。今では放射能が、こうした「絶対悪」でしょう。

「空気」を醸成するのは、かつての軍人のように社会の主流を占める「まじめな」人々です。「できるかできないか考えないで原発をゼロにしよう」と主張する朝日新聞の論説委員は、善意によって悪を追及しているのでしょう。しかし人命のためにはコストを考えないで原発をなくし、すべての放射性廃棄物を除去しようという彼らの主張を実行すると、除染費用は80兆円になる。

そして山本のように、こうしたヒステリックな反応に「水を差す」少数の人は「右派」のレッテルを貼られて朝日新聞のような「主流」のメディアには出してもらえない。しかし彼が結論としてのべているように

戦後の一時期われわれが盛んに口にした「自由」とは何であったか。それは「水を差す自由」の意味であり、これがなかったために、日本はあの破滅を招いたという反省である。[水を差した人は]必ずしも平和主義者だったわけではなく、「竹槍で醸成された空気」に「それはB29に届かない」という「事実」を口にしただけである。(p.171)

私のエネルギー問題の科学的に正しい知識を研究し普及するシンクタンクの呼びかけに、多くの公務員や研究者から「情報を提供したい」というEメールが来て驚きました。今の日本では、脱原発という空気に逆らって「事実」を言うだけでも、かなり勇気がいるようです。