放射線の安全基準は経済問題である

池田 信夫

エネルギー問題は非常に複雑で、全体像を理解している人はほとんどいません。似たような問題でも情報通信は、問題がモジュール化されて論理的に整理されているので、経済学の研究者がソフトウェアのコーディングを知っている必要はないが、エネルギー問題では工学や医学と経済問題や政治問題がからみあっており、ある分野のテクニカルな問題が別の分野に影響することが多い。


その最大の問題が、原発の安全基準です。放射線がどれぐらい健康に影響を及ぼすかは、原発のリスクも経済性も決める根本問題です。「原発を全廃すべきだ」という反原発派の主張は「放射線はどんな微量でも危険だ」というLNT仮説に依存しており、これが否定されると彼らの論拠はすべて崩れます。ところが何度も説明したように、この仮説は、学問的にはきわめて疑わしいのです。

これは原発の経済性を考える上でも重要です。「原子力の発電単価は火力より高い」という大島堅一氏の計算は、年間1mSvというICRP基準で原子力施設を管理することを前提にしていますが、この基準には科学的根拠がない。アリソンもいうように(科学的に意味のある)100mSvを被曝限度にすると、放射性廃棄物の処理コストは普通の産業廃棄物とあまり変わらないので、19兆円ともいわれるバックエンドの処理コストは、1/100以下になるでしょう。

これは今後の政治問題にも大きな影響を与えます。放射線の被曝限度が100mSvになれば、環境省の試算した2400平方キロもの除染も必要なく、賠償額もはるかに小さくなるでしょう。原発のエネルギー源としての将来性も高まり、エネルギーコストは低くなります。これは日本の成長率に有意な影響を及ぼす大きな経済問題です。

放射線の影響に閾値があるかどうかについては、長年にわたって論争が続いていますが、最近のサーベイを読んでも、世界のほとんどの文献が100~200mSvに閾値があることを示しています。放射線医学の専門家には、放射能のリスクを過大評価して人々に無意味な恐怖を植え付け、医学的な利用も過剰に制限しているICRPの基準を改正すべきだという意見が強い。

もちろん科学は多数決で決まるものではないので、少しでもリスクがある限り安全側に立つというIAEAや日本政府の立場は、行政の態度としては理解できます。しかし福島事故の除染費用は、年間5mSvを基準にしても118兆円。おそらく今後、政治的な妥協がはかられるでしょうが、早くも「5mSv以下の除染を自己負担にするのは非人道的だ」といった批判が出ています。

エネルギー技術にリスクはつきものであり、それをゼロにすることは可能でも必要でもない。原発を停止して石炭火力を動かすことによって大気汚染が増え、原発より大きな健康被害が出ると予想されます。世界の専門家が共通に指摘するのは、石炭こそ砒素やクロムや水銀などの有害物質を大量に排出する最悪のエネルギーだということです。

エネルギー問題の社会的コストを計算する上で、放射線基準の見直しは避けて通れないのですが、専門家の中でも問題の所在を理解している人は少ない。しかし除染の作業が始まると、政府は否応なくこの問題に直面します。それを政治的にうやむやにするのではなく、この機会に世界のエネルギー問題を歪めてきた50年前のICRP基準を科学的に見直す議論をしてはどうでしょうか。