「デジタル・デバイド」という言葉は、通常「コンピュータを持っていて(或いは使える環境下にあって)、これを使いこなせる能力をもった人と、そうでない人の間に生じる格差」のことを言う。(この場合、コンピュータは、勿論インターネットに接続していることを前提にしている。)
何故コンピュータを持っていない人がいるかと言うと、お金がないからか、興味がないからであり、何故使いこなせないかと言えば、教育が受けられなかったからか、興味がなかったからだ。今の日本には、お金がないという理由だけの為にコンピュータが使えないという人は殆どいないように思うから、興味の有無がこの両者を分けているかのようだが、その一方で、教育についていうなら、不思議な事に、日本では、小、中、高の何れの過程においても、コンピュータ教育は殆ど無視されてきている。
しかし、日本とは異なり、発展途上国の多くでは、お金がないことがこの両者を無慈悲に分けている。コンピュータ教育もお金がなければ受けられない。問題は、この事が、将来にわたって発展途上国の人達の生活水準を益々押し下げていく事になりかねないという事だ。何故なら、コンピュータ(インターネット)を日常使いこなしている人は、そうでない人に比べて、格段のスピードで知識を増やし続ける可能性があり、課題に直面した時にも、それを解決する為のヒントを短時間で得やすいからだ。
私事で恐縮だが、私は今から約6年前、米クアルコム社の日本での仕事の殆どを後輩の新社長に託した時、「これからは自分は発展途上国市場に注力しよう」と決意していたが、それは、人生の最後の仕事として、この「デジタル・デバイド」を解消することを目標にしたいという思いがあったからだ。
(私は、「発展途上国の人達を含め、既に世界中の多くの人達が持っている携帯電話機が、遠からずPC並みの能力を持つことになり、それを支える無線ネットワークも、「普通のインターネット・アプリケーションをサポートするに足るだけの高速性」を嫌でも備える事になるだろう」と予測していた。だから、大型のLCD画面とキーボードを備えた「がらんどうの箱」を作って、この携帯電話を差し込めるようにすれば、これは最早PCそのものであり、これによって「デジタル・デバイド」の解消に大きな貢献が出来ると考えていた。)
結局、色々な経緯があって、私は日本に残ってソフトバンクの携帯通信事業を手伝う事になり、気が付いてみると既に老境に達してしまったが、今考えてみても、当時の私の技術的な予測は殆ど外れていなかったと思う。
しかし、私が今日語ろうとしているのは、この事ではなく、また別の、「もう一つのデジタル・デバイド」の事だ。つまり、現在の先進諸国においても、コンピュータを普通に使いこなし、常時ネットに接続している人達と、そうでない人達の間に、大きな溝(デバイド)が存在しているように見受けられるという事だ。尤も、この両者間の違いは、「能力」とか「お金」とかには全く関係がなく、極言すれば「趣味・趣向」の問題に起因するものだ。
アメリカでは、「テレビばかり見ている人は、PCの前に座る(インターネットにアクセスする)事は殆どなく、逆に、常にネットにアクセスしている人は、テレビを見ることは殆どない」と言われているが、日本でも、同様の傾向が見られつつあると思う。(この場合、「新聞」が「テレビ」と一括りにされることが多い。)
人間が一日に使える時間は限られているのだから、この事自体は別に不思議な事でも、憂慮すべき事でもないが、問題は、「新聞・テレビ」派は「ネット」派を蔑視する傾向が強く、この逆も真のようだという事だ。本来はそれぞれに長短があり、お互いがお互いの長所に敬意を払って融合を図ることこそが望ましいのに、この現状は何とも悲しい。
問題を単純にする為に、ここでは一旦「テレビ」の事は脇において、「新聞」と「ネット」の関係に目を向けてみよう。
「若者の活字離れ」に不安を感じる一方で、「広告収入の減少」という抜き差しならぬ現実に向き合っている「新聞業界」や、所謂「新聞人」が、増殖を続ける「ネット文化」というものに、何となく嫌悪感を持っているのは恐らく事実だろう。確かに、長年「報道」と「その周辺にある色々なしがらみ」の中に身をおいてきた「新聞人」の目から見ると、ネット上に書かれている多くのことが、「薄っぺら」「無責任な言いたい放題」「誤報も多いが、それが無秩序に拡散されてしまう」と見えるのかもしれない。
しかし、「新聞」に批判的な多くの「ネット派」の目から見ると、新聞は「独善的で傲慢」「アンフェア(自分に都合の悪い事は報道しない)」「専門的な分野に不勉強」と見える。
「メディア」という言葉の本来の意味は「方法・手段」という意味だ。つまり、「目的」ではなく「道具」なのだ。「目的」は、言うまでもなく、一般の人々の「知りたい」という欲求を満たすことだ。そして、一般の人々は、出来るだけ「真実」に近いものを迅速に知り、それについて自ら考える時間と方法を持てるようになって然るべきだ。
「新聞」というメディアは、「多数の記者を雇って種々の取材をし、編集者がそれを重み付けしながら限られた紙数の中に収め、これを印刷して販社を通じて購読者のもとに届ける」という方法を採用し、「購読料」と「広告」の両方を収入源としてきた。これまでは、その方法が経済的にも一番有効な方法だったからだ。しかし、この方法だと、「取材・編集」「印刷」「配達」のそれぞれでのコストが嵩む事は如何ともし難く、新しいメディアが浸透してくると競合が難しくなる。
将来、iPadやAmazonのKindleのようなデバイスが広く行き渡り、現在印刷物を読んでいるのと同じ様な手軽さで、多くの人々がスクリーン上で文字や図表や写真を読み取るようになれば、各新聞社は「印刷」と「配信」のコストを大幅に節減できる理屈だが、各新聞社にとっては、世の中がこの方向に動くのはあまり嬉しくはないように見受けられる。各社ともそれぞれに電子新聞事業は進めているが、現状ではどちらかと言えば「ヘッジ」の色彩が強いようだ。
それが証拠に、肝腎の「編集」方針には、変化がみられそうな気配はない。(紙を電子媒体に変えることは、道具を変えるだけの事で、本質的な改革ではない。)
仮に、これまでの「取材」と「編集」の方針は堅持すると決めたとしても、
ネット上にある膨大な量の関連情報の中から「無責任な言いっ放し」とは見做されないような上質なものにはリンクをはる。
全ての記事に関連して読者のコメントを受け付け、良質の(或る程度の品位を保った)コメントは分け隔てなく他の読者にも公開する。
等の新機軸を打ち出せば、さしたるコスト増もなく、「電子新聞」ならではの大きな強みが発揮出来ると思うのだが、各社とも、そういう方向に動こうとしているようには、現状ではどうも思えない。
現在の新聞に対する最大の批判は、「多数の無辜の読者に、自分達の思想や価値観を押し付けている」という事だと思うのだが、「新聞人」の側からすると、「自分達の考えに基づいて一般人を『啓蒙』する事こそ新聞の使命」だという事なのかもしれない。しかし、もしそうなら、ここにはまさしく思想的な「デバイド」があり、彼等は「守旧派」だということになる。
繰り返すが、私はそれぞれの新聞社が自分達の思想を持ち、それを読者に訴えることを否定しているのではない。「自分達の考えと異なる見方に対し、読者の目を塞ぐのはフェアではない」と言っているだけだ。
各新聞がそれぞれに「社説」欄を持って、そこで自分達の考えを世に問うているのは当然として、それぞれの記事の中でも、自分達の考えを前面に出し、一つの考え方に読者を誘導しようとしている傾向がある事は否めないが、それは別に構わないと私は思う。記事の中で「別の見方もある」ことを示唆し、そのような見方を代表するブログやデータにリンクを張っておく度量だけがあれば、それだけでよいと思っている。
ネット派の側も「成熟」が必要だ。2チャンネル風の言いたい放題のサイトがあっても一向に構わない(嫌なら見なければよいだけの事)し、匿名も良いが、何よりも重要なのは、筆者がきちんと実名を出して書く、ニュースや評論、ブログ等を掲載する「信頼に足るサイト」がネット上に数多く出てくることだ。(その意味では、自画自賛になって恐縮だが、アゴラやBLOGOSは良い仕事をしていると思う。)
ずっと以前にも一度論じたことがある(*)が、最も重要なのは「世論調査」だ。全国紙の「世論調査」は政治にも極めて大きい影響力を持っているが、その正確度には疑問もある。各新聞社の手法は、自紙の購読者の中から無作為で選んだ人達に電話をかけ、その場で回答を貰うことを基本にしているようだが、ここで回答する人は、その時点で家に居て電話取れる可能性が多い人であり、どうしても高齢者に偏る。従って、この人達を平均的な日本国民と見做すのは早計である。(*2009年11月30日付のアゴラの私の記事「世論調査のあり方を問う」をご参照下さい。)
ネット派の確信論者は、勿論、新聞社の現在の報道のあり方(「世論調査」のあり方を含む)に対しては、私以上に手厳しい。しかし、彼等のコメントも、私に言わせれば極論に過ぎる。既存の新聞社などを、頭から「石器持代の生き残り」ででもあるかのように決め付けて、罵詈雑言を浴びせるのは、片手落ちだし、品位にも欠ける。
新聞社の世論調査の対象者が必ずしも日本国民の平均ではないのと同様、或いはそれ以上に、ネットによる世論調査に答える人達も、日本国民の平均からは外れている。正しい手法は、適切な比率で両者を混在させること、即ち「デジタル・デバイド」の現実を理解して、その両者の融合を計ることだと思う。
最後に、古いタイプの政治家であるにもかかわらず、ネット派の間では意外に人気がある小沢一郎氏(*)に関連してたまたま起こった最近の一つの事象から、日本の「デジタル・デバイド」の一側面を俯瞰してみたい。(*新聞社の世論調査では散々の評価になっている小沢一郎氏も、幾つかのネット上での調査では支持者が非支持者の数を上回っていた。)
米国のオバマ大統領などを含め、世界中のネット世代の人達の崇敬の的であるスティーブ・ジョブス氏の訃報が日本に届いたのと同じ頃、小沢氏は、記者会見で、自らのへの金銭疑惑に関連して検察への不信をぶちまけた。日本の殆どの夕刊紙が小沢氏の記事を一面のトップに出して、ジョブス氏の訃報を比較的小さい扱いにしたが、ネット世代の人達にとっては、これは「信じられないような不見識」と見做された。
「デジタル・デバイド」の一方の側にいる人達にとっては、「幾ら金儲けをしたかは知らないが、単なる外国の一企業経営者の『病死』が、何故日本の全国紙の一面トップに掲載されなければならないのか? そんな事を言っている連中の方が不見識」という事になるのだろう。(この様な考え方は或る程度理解出来ないでもないが、この様な人達にとっては、恐らくは、横文字を並べた理解不能な論評が随所で飛び跳ねている現実自体が、何となく不愉快なものであるに違いない。)
しかし、「デジタル・デバイド」の反対側にいる人達からすれば、「世界を変えた不出生の天才の生き方は、その死去を契機に、多くの日本人が自らの生き方に重ね合わせて考えてみるべきだ。日本人であろうと外国人であろうと、政治家、学者、企業家の何れであろうと、そんな事は関係ない。新聞社がもし『変革の中にある世界』を感じ取っているなら、当然これをトップ記事にして、これを機に、広範囲の読者にその事に対する注意を喚起すべきだった。十年一日の如き政治家の金銭疑惑に対する弁明などとは、次元が違う問題なのだ」という事になるだろう。
日本における「もう一つのデジタル・デバイド」の根は結構深い。