TPP問題が国論を二分する議論になっているところへ、ここに来て野田政権が「早期参画」の方針を強く打ち出したことから、市民の一人として、私も自分なりの考えを明確にしなければならなくなった。本来なら、ニュージーランドのJane Kelseyさんの著作「異常な契約―TPPの仮面を剥ぐ」等も通読した上で、考えをまとめたいところなのだが、今はその時間がない。
結論から言うなら、私の意見は、「前向きに且つ慎重に検討したいので、先ずは議論に参画したい」と直ちに申し入れる事だ。(但し、もし「そんな中途半端な態度なら、議論への参画は認められない」と言われるなら、「それでは当面は見送る」と答える。)
その理由は、
1)残念ながら、現状ではプロ・コンの分析や、影響の検証があまりにも不十分である。(各省庁が出す数字に整合性がない等、「縦割り行政」の罪科がここでも見られる。)先ずは議論の中に入って、各項目についての「日本にとっての長期的、短期的な得失」を、確かな数字に基づいて詳細に検証しなければ、判断は不可能である。
2)TPPは「例外なしの関税完全撤廃」を謳い、「投資、人材の交流、基準・認証のあり方等を含め、加盟国の保護主義的政策を一切排除する」という極めて理想主義的な姿を追求しているので、拙速な判断には適さず、国民的なレベルでの時間をかけた議論が必要だが、今の日本は「災害からの復旧」と「原発事故の処理」という二つの難問を抱えた非常時故、無理をして政治の停滞を招く事は避けるべきだ。(この点は9月5日付の私のブログでも指摘した。)
3)しかし、最低限、TPPの内部での議論に参画しなければ、TPPのあり方についての日本の提案を展開する(勿論、日本一国の利害を反映させようとするものではなく、普遍的な納得性のあるものに限る)機会が失われ、今後の経済のグローバル化の流れの中で、日本は何時までも主導権をとれず、終始受身の立場に立たされてしまう。
しかし、上記はあくまで目前の戦術に関する意見であり、戦略の議論ではない。戦略を論じるなら、先ず指摘したいのは、現時点で反対論者が主張している「そんなことをしたら、農業や医療が崩壊して、大変な事になる」という議論は全く根拠がないという事だ。
狼少年を思い起こさせるこの様な主張は、私は以前から繰り返して聞いているが、本当に「大変な事」になったためしはついぞ一度もなかった。実際は、種々の外圧を機に、日本の関連産業はその都度強くなり、結果的には「禍」よりは「福」をもたらせて来た。日本人はそれだけ逆境にめげない「強い民族」であり、我々はその事にもっと自信を持つべきだ。
その典型は自動車産業だ。昔の事を知らない人達には信じられないかもしれないが、当初米国が関税の引き下げを求めた時には、当時の通産省は「そんな事をしたら日本の自動車産業は壊滅する」と主張して、外務省と激しく対立した。しかし、結果はどうだったか? 日本の自動車産業はこれを機に競争力を強め、短期日のうちに日本を代表する輸出産業にのし上がった。
農業だってそうだ。ウルガイ・ラウンドなどで圧力を受けるたびに、日本政府は色々な口実をつけて例外を作り、”too late, too little”の鉄則を頑なに繰り返してきたが、それでも、圧力を受けなかったよりは良い結果が得られている。これがなかったら、日本の一般大衆の食生活は現在よりずっと貧しいものになっていただろう。
ウルガイ・ラウンド対策として42兆円にものぼる「農業基盤整備事業費」を注ぎ込み、平均年齢68.5歳の農協に依存する「兼業農家」や「土地持ち非農家」を優遇してきたからこそ「大変なこと」にならなかったのだと言う人がいるだろうが、現時点で、「これらの人達を救済し続ける為に、これ以上の関税引き下げを断固として防ぐべき」という論拠は、幾ら贔屓目に考えてみても、何処にも見当たらない。
現実に「大変な事になる」と騒いでいるのは、「農協や農協に依存する人達」であり、先進的な「専業農家」や「篤農家」はそんな事は言っていない。世界の何処へ行こうと、「既得権者は自らは決して改革・改善には取り組まず、永久に補助金などで守られることを求め続ける」というのは悲しい現実であり、これから脱却する為には、残念ながら、「大変な事になりそうに見えるが、実際にはそうはならない」事態に自ら身を晒して貰うしかない。
TPPの問題は何も農業問題に限ることではなく、医療体制についても「大変な事」になると言っている人がいるが、これも「医師会」や「保険会社」の立場から言っているのであり、一般国民からの議論ではない。
「日本の医療保険制度は、独仏と並んで世界では最もバランスが取れたものだ(英国は最悪、北欧や米国もそれぞれに問題含み)」と評価されている事は知っているが、だからと言って日本の現在の医療保険制度が最良のものであるという保証はない。もし改善の余地が全くない程に優れたものであるのなら、TPPの議論の中でも堂々とそれを主張し、その主張を貫き通せばよいではないか?
この事に限らず、今回のTPPの議論の中で致命的に欠落しているのは、TPPがもたらすものが一般大衆の生活水準の向上(例えば食生活のコスト低減)にどれだけの貢献をするかという事の検証だ。賛成派(輸出産業)も反対派(農業や医療関係者)も、おしなべて供給者側の利害計算に基づく数字しか言っていないのは、何とも片手落ちだ。
本来、TPPに見られる様な「例外なき関税ゼロ化」の試みは、世界全体を一つの国と見做し、「最適な場所で、最も効率的な生産を行う能力をもった生産者が生産したものが、世界中で自由に流通すれば、世界中の人達の生活水準の平均値は確実に上がる」という「極めて理想主義的な思想」とベースとして、出来るところからその理想を実現していこうというという考えに基づいている。
だから、その可否を論じるに当たっては、先ずは「その思想を『理想』として認めるかどうか」という議論から始めなければならない。その上で、具体的な問題点があれば、それを一つ一つ潰し、その問題点の解決策や妥協案を考えていくというのが筋である筈だ。にもかかわらず、現在の議論は、すべからく「自分達の利益(既得権)を害するかどうか」という事から出発しており、これを論じる人達が、一旦立ち止まって「最大多数の最大幸福」を考える余裕すら持っていないのは、何とも悲しい。
さて、ここまで、私は現在のTPP議論の本質の一つの側面についてのみ語った。しかし、本論の表題にも示した通り、今回のTPP議論には、一方で「安全保障」の側面もあると私は見ている。そうでなければ、野田総理をはじめとする政権の中枢が、党内外の根強い反対論を押し切ってまで、これ程までもTPPへの早期参画に肩入れするのは解せないと考えるのが普通だろう。
「安全保障」と言っても、「国内農業保護政策」の信奉者達がしばしば口にする「最悪時の食糧自給体制」の事を言っているのではない。これは、何が何でも国内の農業を保護したい人達が無理に考え出した「理屈付け」の一つに過ぎず、それを口にしている人達も、まさか本気でそう考えているわけではない筈だ。
日本は、先の大戦の末期に国民全体が餓死の危機に瀕し、米国の食糧援助によって辛うじて食いつないだという悲惨な体験をしている。(かく言う私も、米国から供給された家畜の飼料である「ナンバ粉」で作ったパン等で、辛うじて生きながらえた世代に属する。)
しかし、それは、日本が世界中を敵にして戦い、食糧を供給してくれる国が何処にもなく、仮にあったとしても海上輸送が不可能な状態に陥っていたからだ。これに対し、今後の日本が、米国、カナダ、豪州、及び多くのアジア諸国と再び戦争状態に入り、これ等のどの国からも食料、燃料を初めとする必要物資が何も供給されず、全てを自給しなければならない事態に陥るとは、先ず考えられない。
私がここでいう「安全保障」とは、これとは全く違った次元のもので、「超大国となりつつある中国が、もし軍事力を更に強化し、アジアにおける覇権を露骨に追求し始めた場合には、米国の存在なくしてはこれに対抗出来なくなる。しかし、経済力の衰えた米国が財政再建の為に軍事力の削減に舵をきり、その一環としてアジアにおける軍事的プレゼンスの維持を断念したらどうなるか?」という危機感から生じている議論である。
第二次世界大戦以前のアジアは、共に中国市場に野心をもった「遅れてきた植民地主義国」である米国と日本が、中国での覇権を求めて争った時代だった。大戦後の東西冷戦時代には、アジアにおける中・ソの共産主義勢力の伸張を封じ込める為に、米国が日本とASEAN諸国を強引に自らの配下に組み入れようとした時代だった。しかし、今や時代は大きく変わっており、日本や他のアジア諸国(特に中国と国境を接し、または紛争海域を持つベトナムやフィリピン、インド等)が、アジア全域における中国の支配力に歯止めをかける為に、米国に「この地域における軍事的プレゼンスの維持」を求めているのだ。
軍事力の維持には膨大なコストがかかるから、植民地主義が完全に姿を消した現代といえども、軍事力を提供する国は、当然その見返りとなる「経済的メリット」を求める。そして、米国が求める「経済的メリット」とは、「アジア経済がブロック化していく中で、米国がその枠の外に置かれてしまうことがないようにする」事に尽きる。日本やASEAN諸国が、米国のこの様な欲求に、ぎりぎりのところで配慮する政策を採らざるを得ないのはそれ故だ。
TPPは、もともとはシンガポールやニュージーランドのような小国が考え出した「理想主義的な小さな地域的試み」に過ぎなかったが、米国がこれに目を付け、これを「ASEAN + 日・中・韓」の枠組みに代わるものに仕立て上げようという意欲を持ち始めたという事は、誰の目にも明らかだ。
従って、TPPの議論を巡って、「これは米国の罠だ」とか「TPP推進派は日本を米国の属国にしようとしているに等しい」とか言う人達は、全く根拠のない話をしている訳ではない。TPP推進派の動機の中に「米国への配慮」がない訳はないからだ。(特に、民主党政権は、政権の成立直後に大きな誤りを犯し、「沖縄問題で大きな借りを作ってしまった」という引け目があるので、特に「配慮」が必要なのだろう。)
しかし、それが「私利私欲の為に国を売る行為」でない事は勿論だ。何時の時代でも「相手国への配慮」は、しばしば「弱腰外交だ」と誹られ、極端な場合には「国を売る行為」だと糾弾されることが多いが、殆どの場合、それが全くの的外れだった事は歴史が証明している。「相手国への配慮」は、それが「自国の利益を最大化するために必要な方策だ」と判断されたが故の事であって、それは外交の機微の中に自ら身を置いた人達なら誰でも分かっていることだ。
長い歴史を通じて、隔離された島国として隣接した諸外国との困難な外交交渉の中に身をおいた経験の少ない日本人が、何事によらず交渉事を不得意としているのは、残念ながら事実のようだ。しかし、「軍事力による威圧」が最早外交の基本ではなくなった現代においては、独立国として自国の利害をきちんと説明し、他国の利害との調整を計るのはさして難しいことではなく、「何が公正か」を堂々と主張する事を躊躇う理由も全くない。
従って、「どうせ日本は米国の言いなりになるのだ」等と自虐的に言い放って、初めから交渉を忌避するような人達には、私は何の共感も持たない。「常に堂々と、万国共通の合理精神を基準に、全ての物事の是々非々を論じる」事こそが全ての基本であり、その軸がぶれない限りは、何も恐れる事はない。
TPPについ言うなら、繰り返しになるが、私はTPPがもたらすであろう「大変な事」を、むしろ秘かに待ち望んでいる一人だ。反対論者が言う「大変な事」は、実は一部の人達にとって大変なだけであり、国民大衆にとっては恐らくメリットの方が多いだろうと考えているからだ。また、どんな場合でも、最終的に追求すべきは、「グローバル・レベルでの理想の実現」に一歩でも近づく事だと考えているからだ。
しかし、私とて、未だその得失を徹底して検証してみたわけではなく、従って、拙速な結論を求める積りは全くない。だからこそ、私の現時点での結論は、前述の通り、「先ずは交渉に参加すること」であり、「その過程の中で内外の議論を深めること」である。
これまでの検証や議論が不十分であり、米国などが「いつもながらの日本の動きの遅さ」に苛立っているのは残念だが、ここまでくれば開き直るしかない。最悪時、仮にこの時点で彼等が見切り発車をして、日本が取り残されてしまったとしても、失うものは致命的とは言えず、何時でもリカバリーは出来る筈だ。それよりも、今は「国論の亀裂」を最小限に抑える為の「議論の徹底」こそが、何よりも必要だと思っている。