沖縄防衛局長の「不適切発言」に続き、群馬大学教授の暴言が話題になっている。「不適切発言」で気になるのは、言論に関わる問題を「論争」ではなく、「処分」で決着させる日本の悪習である。記事を良く読んで見ると、両事件とも問題は「不適切発言」と言うより、「不適切比喩」と言うべきであろう。
確かに、誠に愚かな比喩ではあるが「愚か」である事は「罪」ではない。大切な事は、言論問題の紛争を、権限を使った「処分」で解決をはかるなどとんでもないと言う事である。
中でも「沖縄不適切発言を巡っての、マスコミの言動は目を覆いたくなる。報道に携わる者にとって基本的な職業倫理である筈の「情報源の秘匿義務を簡単に放棄して、スキャンダル報道に夢中になるマスコミには、表現の自由・報道の自由を保障した憲法に基づいて与えられた特権を享受する資格はない。
「評価書の年内提出の方針に対する疑問と言う主題を忘れ、「沖縄住民や女性を侮辱した」と言う感情的な見出しで世論を煽動する報道は、ならず者の「言い掛かり」と変らない。ましてや、不適切発言をした当人に釈明の機会も与えないなど、卑怯者の取る態度その物である。
同じマスコミでも、2003年に中央情報局(CIA)の工作員の身元が暴露された事件では、その情報源について証言を拒否したニューヨークタイムズの女性記者は、収監されても、情報提供者が身元の公開に同意するまで、長期に亘り情報源を明かす事を拒否し続けた。それに比べ、情報源を暴露して英雄気取りになる日本のジャーナリストには、報道の自由を語る資格もない。
言論問題は、論争を通じて解決するのが民主社会の証であり、「鉄則」である。この「鉄則」より、安直な「鉄槌」に走る日本社会は、物質は豊富だが文化的には未開の野蛮社会に等しい。
群馬大の早川教授の「暴言」問題と異なり、権力者である沖縄防衛局長の「不適切発言」には、情状酌量の余地が少ないのは当然だが、何れの場合も、主題その物より、下卑な比喩が感情的に取り上げられた事に特徴がある。
「犯す前に犯すと言う訳がない」と言う不適切な比喩に焦点をあわせた結果「環境影響評価の『評価書』の年内提出の方針について明言を避けているのはなぜか?」と言う主題は今や忘却の彼方である。
群馬大の早川教授の暴言事件でも、「放射性物質に汚染された農作物の危険性を訴えた主題は論議の対象から外れ、今や「福島県内で農作業を続ける農民は、サリンをばら撒いたオウム信者と同じだ」と言う比喩に話題が集中している。
田中沖縄防衛局長や早川教授が選択した比喩からも、彼らがその地位にふさわしい識見を備えた人物ではない事は確かだが、使用した比喩の下品さだけを取り上げ、充分な論争もせず処分で解決しようとする事は、民主主義の原則を冒涜するものである。
大学の処分を「言論の自由の根幹にかかわる。大学の自殺行為だ」と批判した早川教授は正しいが、この様な品格ゼロの比喩を使う人間がが大学教授の地位についたり、報道に携わる人間の基本的な義務である「情報源秘匿」を、売り込みの為に簡単に放棄する人物が記者の地位を維持できる日本の人事体系の見直しは喫緊の課題である。
繰り返すが、愚かである事は罪ではない。然し、権力の行き過ぎから国民を守る為に与えられた情報源秘匿の権利を悪用するマスコミや、大学に与えられた思想と表現の自由を脅かしてまでも、教授の発言が気に食わないとして処分する大学当局の行為は、立派な罪である。
北村隆司