先の記事について、池尾批判をしたところ、痛烈な返り討ちにあった。(コメント欄参照)
このままではいけないので、何回かに分けて、強く反論したい。
この池尾氏の行動ファイナンスの理解は誤りであると。
池尾氏の小幡批判を再掲しよう。
小幡績(著)『行動ファイナンス』という、日本証券アナリスト協会の通信教育講座用のテキストとして書かれた冊子があって、これが市販されていないのが残念なくらいの優れものである。その中で、行動ファイナンスと経済心理学の違いが論じられており、次のように書かれている。
「経済心理学は、経済の主要プレーヤーである人間の意思決定においては、心理的要素が重要となることを強調し、それゆえ、人間の心理の分析を経済分析に組み入れる必要があると説く。しかし、このような経済心理学は、伝統的ファイナンス理論に対する批判としては弱いものとなるか、あるいは、むしろ、伝統的ファイナンス理論のすばらしさを示すものとなる。」
実に卓見ですね。「投資家は合理的ではない」とか言っているだけで意味があるかのごとく勘違いしている者達が多い中で、そうではないことを小幡君はよく理解している。
なぜならば、裁定活動が制約なく展開できるのであれば、100人中、99人が非合理的であっても、1人合理的な行動をとる者がいれば、市場価格は効率的なものになると考えられるからである(非合理的な行動をとる者は、合理的行動をとる者のカモになるだけ)。換言すると、裁定活動に限界があること(Limited Arbitrage)を示すことが、行動ファイナンスに意義があるといえる大前提になる。
それで、私の先の記事は、裁定行動の困難さに焦点を当てているのだけれども、この小幡君の記事には経済心理学的な話ししかない。ちょっと退化してきているんじゃないかなと危惧する。
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この池尾批判は、行動ファイナンスの本質を理解していないことからきている。
最も、ほとんどすべてのエコノミスト、経済学者、そして、行動経済学者、行動ファイナンス学者ですら、誤解しているので、池尾氏だけが誤っているのではない。
裁定取引の限界が、行動ファイナンスと現代ファイナンス(すなわち、すべては合理的に決まり、証券の市場価格は効率的な価格となっているという効率的市場仮説)を分けているのではない。もっと、本質的な違いがあるのである。
もし、合理的な投資家と、非合理的な投資家(ノイズトレーダー)が市場に存在し、一人でも合理的な投資家がいれば、裁定取引を行い、市場価格は適正なファンダメンタルズに戻る、そして、その合理的な投資家が裁定取引を十分に行うことが現実的な市場において出来るかどうかが問題なのであれば、やはり、行動ファイナンスは意味の無い学問となる。一時的な市場の歪みを描写するものに過ぎず、長期的には、ノイズトレーダーが淘汰され、あるいは合理的な投資家が増加することにより、あるいは、裁定取引を妨げているものを除去していけば、
現代ファイナンスの世界が成立するのであり、それは望ましいと同時に、現実に到達しうるものである。実際、日本市場などと言う非合理な投資家が多く存在する市場では、80年代にバブルが起き、2000年以降国債バブルが起き、一方、米国や英国のような洗練された経験を積んだ投資家が集まる世界では、効率的市場が成り立つ。新興国、ロシアなどのかつての社会主義からの移行国など、野蛮な金融市場ではあり得るが、段々金融市場の発達、成熟とともに、それはなくなるのだ、という主張が正しいことになる。
そうではないのだ。
金融市場は、本質的に非効率であり、非効率、あるいは歪みが残り続けるのであり、洗練された投資家、情報優位にあり合理的な投資家であればあるほど、それを望むのだ。
それを示すのが、本当の行動ファイナンスであり、おそらくこれは、Shleiferと私しか本質的に理解していないのではないか。