内田樹氏の著書『呪いの時代』にまつわる記事が注目を集めているが、折しもつい先日、記事内にある下記の一節を端的に示す事件があったので紹介したいと思う。
呪いというものを、僕は「記号化の過剰」というふうに理解しています。人間を生身の、骨肉を備え、固有の歴史を持つ、個性的な存在だと思っていたら、呪いはかからない。呪いというのは、人間の厚みも深みもすべて捨象(考察の対象から切り捨てること)して、一個の記号として扱うことです。
事件とは、ある人物がツイートを捏造されて2ちゃんねるに晒され誹謗中傷を受けたというものだが、詳細については被害にあった方のブログ「Twitterの発言を捏造されて2ちゃんねるで炎上した件について」を参照していただきたい。
ここではまさに、「呪い」と「記号化」が行われている。スレッドを見る限り、唐突に情報の捏造という形で「呪い」をかけ、よってたかって個人を特定し、犯人という「記号」を仕立て上げ、執拗に攻撃している。誰が何のために捏造したのか、私怨なのか、何となくの思いつきなのか理由はわからないが、とにかく標的を祭り上げるときのエネルギー、スピード感は尋常ではない。
そもそも、仮に本当に彼がつぶやいたのだとしても、鬼の首を取ったかのように個人情報を晒してバッシングし、追いつめるほどのことだろうか。あるいは私に“現場感”がないからかもしれないが、おそらく「ネタ」は何でもよかったのだろうと思う。というより、ネタさえあればよいとさえ言える。
なぜなら、情報の真偽は問われず、ツイートした(とされる)内容自体へのリアクション、吟味がないからだ。ネタだからこそ、実在する人物を平気で誹謗中傷することができるし、捏造だったと判明しても謝罪をしたり、反省の意を表すということがない。「ネタに乗っかっただけ」「盛り上げるための燃料」「捏造したヤツが悪い」という認識なのだろう。
だが、ネタにされた方はそれではすまされない。犯罪行為をしたという内容ではないものの、風評リスクというものが少なからずある。事実無根だとしても、疑いをかけられただけで著しく名誉を毀損する可能性がある。今回のパターンでは、被害に遭った本人が冷静に対処したことでリスクを最小限に抑えることができたが、2ちゃんねるにおいてこの状態は「ネタとして勢いをなくす」ことを意味する。少なからず傷つき、汚名を返上するために労力を使ったのにもかかわらず、結果は「ただ話題にならなくなるだけ」である(一部脅しをかけたアカウントが晒されてはいたが)。
議論をしたり、何かを証明するには具体的な相手が必要だが、2ちゃんねるにはその相手がいない。匿名の人物だけで構成された空間には、記号しかない。当然ながら、記号と記号は議論できない。つまり、具体的な人物がやり玉に上げられたとしても、その場においては当の本人も記号化されているため、本質的には無実を証明することができないのだ。
「そもそも、話題の提供者と野次馬がいてはじめて盛り上がるコンテンツであるし、各人が議論をしたり真偽について検証するところではない。だからこそ自由で面白い」という意見もあるだろう。だが、情報を捏造し、そこに誰かが燃料を注ぎ、放火犯を仕立て上げ、その火事を見に野次馬が集まってくる状態が、本当に面白いだろうか。少なくとも、私にとっては不愉快だ。記号化するということは、違う「枠組み」に放り込むということであり、生殺与奪の権を握るような振る舞いだからである。
枠組みについては、ある人が害虫を見つけたときどうするかを考えると分かりやすい。ほぼ100%躊躇せず駆除する(あるいは殺す)はずだが、何故かといえば、人間の都合から見て外側にあり、悪しきものである「害虫一般」という記号だからだ。感情や倫理観が働くことはほぼない。2ちゃんねるというプラットフォームでは、本来血の通った人間が違う枠組みに取り込まれるということが行われている。そこにおいては「害虫を駆除して何が悪い」というロジックが成立し得るのである。
誤解してほしくないが「2ちゃんねる自体が悪だ」とは言っていない。スレッドの中には、純粋にいい話だなと感動するものもあれば、害のない笑い話、素人とは思えないハイレベルなコンテンツもあり、様々なニーズに応えうる器の大きいサービスであることは間違いない。
だが、同時に「裁く者がいない」という意味では、絶対的にアンフェアな空間なのである。サイトとしての管理機能はあっても、モラル・ハザードを内包していることは否めない。裁く者のいないプラットフォームでは、誰もが呪術師になれるのだ。
青木 勇気
@totti81