情けない「口だけ絆」の日本 -「役に立つ馬鹿」を見捨てる時だ!

北村 隆司

橋下市長が、大阪市議会でがれきの受け入れに慎重な意見が相次いだことに苛立ち、「湾岸戦争のときに金だけ出して、世界からばかにされたときの屈辱を思い出す。こんな情けない日本は子孫に残したくない」と痛烈に批判したと言う。
誠にその通り! 胸のすく思いだ。


海外に住んでいる私は、「NIMBY (Not In My Back Yard)  Japan」 と侮蔑的なコメントを受ける度に、「そんな事はない」と日本の防戦をし続ける屈辱に苛立っている。

橋下市長は、「憲法論議をするつもりはないが、世界では人命を救うために自らの命を落としてでも困難に立ち向かっている。日本だけがそれをやらない。震災直後に絆とか支え合いと言っていたのは何だったのか」と言ったそうだが、誠に尤もである。

何故、この様な、臆病で、優柔不断な日本になってしまったのか? 私は、戦後日本の知識階級に強大な影響を与えて来た「進歩的文化人」が、その犯人だと思っている。

ソ連が瓦解する前の冷戦時代に、西側諸国のソ連信奉者が、共産主義とその社会を賛美する様子をソ連当局が歓迎しつつも、内心では彼らの愚かさを軽蔑し、冷笑的に利用していたグループを指して「役に立つ馬鹿(useful idiots)」と呼んでいた。

戦後日本には、ソ連とは限らないが、夫々の信奉する外国の思想を賛美し、「それを可能にしたのは何故か?」と解説する事を生業とするグループがあった。それが、「進歩的文化人」と称された集団である。その集団には、戦後政治思想の神様に近い存在であった丸山真男を含む、人格、識見並々ならぬ人々が含まれる。

このインテリグループは、特定のイデオロギーを主張しない為に、利用価値が高く「良心的勢力」とも呼ばれた。この「良心的勢力」は、決定プロセスの是非を延々と論議するグループで、日本の「優柔不断風潮」の形成に大きな影響を与えて来た。

「満場一致」や「小数意見尊重」等の「形式尊重」が民主主義の根本思想だと言う、世界の常識からは遠く離れた「日本的ドグマ」も彼らの影響で誕生した。

はっきり物を言えば「恫喝」と言い、「即決」は「独断」に通じる反民主主義だと教え込み、国民一人一人が考えなければならない民主主義を、「これが民主主義だ」と言う「暗記科目」に変えてしまったのも「進歩的文化人」の教条主義が犯した罪である。

民主社会の特徴の一つは「説得と納得」であり、市民の間に不安があれば、それを説得し、素早く物事を処理して行くのが指導者の役割りである。その反面、国民の「ゴネ」も許されず、有識者やマスコミのおもねりや不和雷同も禁手である。

難しいのは、この違いが極めて微妙な事で、それが妥当であるか否かを決めるのは、有識者の解説でも、マスコミでもなく、有権者の投票だと言う認識が日本人には欠けている。これも、、知識に劣る国民の考えより、「有識者」の意見やマスコミを信用させる神話を作った「進歩的文化人」の手品である。

具体案も示さず「慎重な、がれき処理」を唱える人々の多くは、俗称“朝日文化人”“岩波文化人”と呼ばれた「進歩的文化人」の系譜を引く人々で、「良心的」と言う芸名を使った利己主義芸人の集団である。
現在活躍している著明な知識人の殆どが。「平和主義」を「九条」や「武器三原則」と同義語と見る「九条の会」の発起人、賛同者に名を連ねている人達だと聞くと、世界で紛争が起るたびに腰が引けて馬鹿にされる日本の犯人を見る想いだ。

これ等、の似非「進歩的文化人」に比べれば、「非武装中立は日本が資本主義だから唱えていることで、日本が社会主義になれば帝国主義に抗するため軍備を持つのは当然」と公言した向坂逸郎の方が筋が通っており、本当の「良心的文化人」だと思う。この点、橋下市長は向坂教授に通ずるものを感じる。
日本には、財政危機、行政改革、地方分権、大震災復興、エネルギー問題など日本の死活を制する大問題が山積している。だらだらと論議している時ではない。誤った決定は、優柔不断に数千倍勝る。何故なら、誤りであれば、それが直ぐ判るからだ。

日本の政治は55年体制の崩壊が進んでいるが、有識者やマスコミの価値観は、依然として良心的文化人体制から抜け出せていない。

「公平」と言う莚旗を掲げ、リベラルの旗手を誇っていた岩波さえ、「コネ採用」に転換した現在、官僚、有識者、マスコミなど日本のインテリは、一刻も早く、古びた「良心的文化人」へのコンプレックスから脱却して、日本を「ひ弱な、草食国家」にする運動から手を引いて欲しい。

北村 隆司