大阪市のブレーンである古賀茂明氏の主張は、私が昨年インタビューしたときは、ごく常識的なものだったが、ここに来て極左化している。昨年、彼は「原発の本質的な問題は事故ではなく核燃料の最終処理だ」と言っていたが、最近は「市民や中小企業」を代表して原発の再稼働に反対する福島みずほ的レトリックに傾斜している。
なぜこうなったのか、元同僚も不審に思っている。一つの仮説は、飯田哲也氏にだまされたというものだ。彼は「太陽光発電コストが原子力発電コストを下回った」という偽造データを孫正義氏に見せて「自然エネルギー財団」に10億円を引き出した詐欺師だが、古賀氏なら彼の嘘はすぐ見抜けるはずだ。
もう一つの仮説は「ワイドショーに毎日出ている内にコメンテーターのポピュリズムに影響された」というものだ。この説も捨てがたいが、私は「東洋的徳治主義の倫理だ」という仮説を出したい。
古賀氏と話していて印象的なのは、とても誠実な人だということである。話の中身はよくも悪くも常識的で、受けをねらって極端なことをいうタイプではない。彼の話で印象的だったのは、「官僚は政治家に仕える身」で、決めるのは政治家だという言葉だった。「政治主導」は必要だが、いま政治が空転しているのは民主党の政治家に「能力がない」ためだといっていた。
これは官僚の平均的な感覚だと思う。彼らは日本社会のエリートであり、政治家を見下している。財務省はバカな政治家にまかせたら予算が食い物にされると恐れているので、予算編成を政治家にまかせない。逆にいうと、能力のある政治家が命令したら、それに仕える行政官は従うしかない。
これは西洋的な合理的官僚とは違う。法の支配のもとでは、少なくとも理念的には「公僕」である官僚が従うのは法であって政治家ではないから、その関係は政治家の能力には依存しない。しかし東洋的徳治主義では、皇帝の命令の正統性は「君子」としての倫理で保証されているので、官僚がそれを疑うことは許されない。
大阪の場合、原発について何も予備知識のなかった橋下徹氏が「原発なしでも問題ない」と言い始めたのは去年の夏だが、このころは関西はさほど電力が逼迫していなかった。原発がすべて止まる今年の夏は明らかに状況が違うのだが、橋下氏は去年の思いつきを撤回しない。おそらく古賀氏は停電のリスクを認識していると思うが、そういう批判は徳治主義では許されないので、「皇帝の官吏」として忠誠を尽くしているのではないか。
私は民主主義が万能だとは思わないが、徳治主義にもこういう危うさがある。それはエリート主義のようにみえて、無原則なポピュリズムと紙一重だ。少なくとも法的根拠なしに数兆円の損害を民間に与えてはならないという法の支配は、政治的意思決定の最低限度の条件だろう。