大飯原発の再稼働について橋下市長が「正直、負けたといえば負けた。そう思われても仕方がない」と述べて話題を呼んでいるが、私はこの「負けっぷり」は潔いと思う。
ニューズウィークでも書いたことだが、橋下氏はかなり前から再稼働反対論の筋が悪いことは理解していたのではないか。5月11日には、次のようにかなり率直な発言をしている。
池田さんは法治論を展開している。それは認める。ただしそれは電気事業法40条の省令基準が福島事故後も同じであることを前提。電気事業法が想定していなかった原発事故があったのだから基準を変えるということもありでしょう。しかも省令だから経産大臣の判断一つ。
ただここで難しいのが国家経済ですね。ここは池田さんの論に理ありです。正直ここはお手上げです。悩んでいます。ですからここはもう価値判断。世代の違いもあるのかもしれませんが僕は国家経済を少し後回しにしてもというポジションに立ちます。ゆえに国民の選択に委ねざるを得ないと思っているのです
またリスク論も池田さんの主張には説得性がありますが、最後は対策の不完全性の諦め。どこで諦めるかですね。なぜ原発にはなかなか諦められないのか。これも論理明晰というわけにはいかずやはり価値判断というのが正直なところですね。ただ敢えて言うならやはりリスクヘッジ。
これは当ブログの「橋下徹氏のための原子力リスク入門」という記事へのコメントだ。このとき私は「橋下さんはもうわかっていて、落とし所をさぐってるんだな」と思ったが、関西広域連合で強硬論が勢いづいたため、引っ込みがつかなくなったのだろう。
これは実は他の知事も同じだった。滋賀県の嘉田知事も、再稼働の決定が出てからほっとしたような表情で「臨時的な再稼働はやむを得ないという方が、気持ちとしては近い」とコメントした。このまま計画停電に突入して大混乱になったら、彼女が批判の矢面に立つことはわかっていたからだ。
「安全と危険のどっちがいいか」と問われたら、危険がいいという人はいない。知事がこういう建て前論を主張したら誰も反対できないから、ずるずると「空気」が醸成されて、みんながおかしいなと思いながら無謀な作戦が実行される――という悲劇は日本軍で数知れず繰り返された。ノモンハン事件で大損害を出し、ガダルカナルで日本軍を全滅させた辻政信や、インパール作戦で5万人以上を犠牲にした牟田口廉也はその代表だ。
このような悲劇を避けるには、「今まで反対してきたのだから引っ込みがつかない」とか「みんなが言ってるんだから自分だけ違うことはできない」といった感情論を排して結果志向で考え、客観的に勝算がないときは撤退するしかない。そんなことはわかりきっているが、日本の政治家にも企業にもその勇気がない。その点で「君子豹変」した橋下氏は立派だと思う。