司法制度の抜本改革は喫緊の責務! ― 東電OL殺害事件再審決定に思う

北村 隆司

尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件が起きた後に、「軍事目標」を不法に撮影したとして、中国当局に「フジタ」の日本人社員が拘束された事件は、自国の利益を追求する為には法律の解釈を勝手に拡大する中国の典型的な言いがかりであった。

然し、日本国民が中国の不当行為に憤慨しながら、東電OL殺害事件で殺人の疑いをかけられたマイナリ元受刑者が、一審で無罪になった後も拘留され続けた事実を非難しないのは如何にも片手落ちである。

我が国の憲法は在日外国人にも、基本的人権の享有を保障しており、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約並びに市民的及び政治的権利に関する国際規約を批准している。この様に、日本はさまざまな分野において、日本国籍を有する者とそうでない者との間の平等を国際的に約束している事実を、裁判所はどの様に解釈しているのであろうか?


外国人であると言う理由だけで、無罪になった者を拘束し続ける事こそ、中国同様の反民主的で全体主義的な行為であって、この行為を強く非難しない日本のマスコミの態度は理解できない。

人が人を裁く以上、どこの国でも冤罪を皆無にする事は不可能であるが、日本の冤罪の多くが、一過性のミスではなく、司法制度その物の欠陥に因する事が問題である。

日本の裁判で“自白は証拠の王”とみなす考え方に加え、我が国の検視官不足や科学捜査体制の貧弱さはひどすぎる。これも、先入観や思い込みに偏る捜査をはびこらせる遠因で、着実な捜査よりも速やかな容疑者の逮捕などを求めるマスコミや、そういった誘導に引きずられる国民世論も問題である。

日本のマスコミと国民の後進性は、有罪確定までは「推定無罪」として扱うという原則とは裏腹に、逮捕された瞬間から犯罪者として扱い、社会から「制裁」を受けてしまう傾向が強い。

我々国民は、罪刑法定主義、一事不再理、法の不遡及、法の下の平等の原則と言う世界の法治国の常識は、日本でも守られていると信じがちだが、これは迷信に過ぎない。

憲法第39条で保証されている筈の「一事不再理」と言う世界の常識が、何故日本では守られていないのか?法律に疎い私が、ウィキペデイアを検索して見ると、「日本国憲法のGHQ草案では法の不遡及、一事不再理は全く別の条文であったが、GHQとの折衝を担当した内閣法制局の入江俊郎や佐藤達夫らは『一事不再理』 の意味を知らず削除したが、GHQが削除には同意していないことを知り、末尾に付け足したことが第39条を分かり辛い条文にした。また、無罪判決に対する検察官の上訴が合憲だとする最高裁の判断についても、1審から上告審までがなぜ『継続せる一つの危険』なのか説明していない」とある。

日本の法制度のエースが、法の基本原理を理解できなかったとはとても信じられなかったが、「アメリカ合衆国憲法を英文で読む」と言う本に「米国憲法の日本語訳には素人目にも明らかな誤りが次々に見つかる。問題の訳者達が殆ど例外なく米国の著名なロースクールで学んだ大学教授であった」とあり、ひょっとすると本当かもと思って仕舞った。

日本の司法制度の瑕疵はこれに留まらない。日本には代用監獄(留置場)と呼ばれる近代国家としては極めて特異な取調べ体制が公的に存在し、司法当局の求める自白を容易に引き出せることが、冤罪の温床となっている。

留置場に容疑者を拘束して取調べを行うこと自体は、諸外国でも行われているが、問題は 警察が 容疑者を拘束出来る 期間である。その上限を国別に比べて見ると :
カナダ  1 日 フィリィピン 1.5 日 アメリカ合衆国 、 ドイツ 、 ニュージーランド 、   南アフリカ  2 日  ウクライナ、 デンマーク 、 ノルウェー  3 日  イタリア 、  イギリス 4日 ロシア 、 スペイン  5 日  フランス  6 日 アイルランド  7 日  トルコ  7.5 日 オーストラリア 12 日
に対し 日本 は28 日と、日本が際立って長い事が解る。

わが国の有罪率は99%を超えるもうひとつの要因として、警察や検察が、国をバックにした資金力と組織力、そして強制捜査権限という強力な証拠収集権を行使して証拠を集めて起訴しながら、証拠の開示も義務付けられず、敗訴すると控訴出来るのに対し、公正の原則を信奉する米国(フェアプレーの原則)では、公判前に開示されない証拠は裁判で証拠として認められないだけでなく、刑事裁判の一審で検察側が敗訴(無罪判決)した場合は、控訴出来ない原則を設けて公平を図っている。

大陸法と英米法の違いと言う細かな理屈はさておき、日本では何が公正であるかとか、裁判員の無罪の判断が検察官の上訴で無意味になる可能性など本質的な問題は論議すらされていない。

日本の地裁、高裁、最高裁の関係は上下関係にずぎず、その質的な違いもはっきりしていない。米国の場合、第一審が「事実審」なのに対して、控訴裁は「法律審」であって、第一審で確定判決がでた場合には、その事件について再度実体審理をすることは許されず、一事不再理が起こらない事が制度的に保証されている。

憲法を最高法規と言うより国家の規範と考える米国では、最高裁判事は任命される前に、その理念を上院で厳しく追求されるが、法曹資格は求められていない。それに対し、日本では憲法を国家の最高法規と定めていながら、最高裁の判事には法曹資格が求められないのは皮肉である。その背景には、最高裁判事に外務省出身者一名、厚生労働省出身者一名を指定席にする為の官僚の狡猾な意図が見え隠れする。

日本の裁判は、制度的にも現実的にも「人が人を裁く」と言う謙虚さと緊張感に欠け、「司法が国民を裁く」と言う「おいこら警察」精神は戦前と全く変わっていない。

耐震強度偽装事件をきっかけに国民の信頼を失った建築基準法は改正されたが、枚挙に暇が無いほど多くの冤罪事件を起こしながら、喫緊の課題である筈の日本の司法制度の本質的改正の必要が叫ばれないのが不思議でならない。

改正建築基準法は、現場の実態を知らない官僚の作文であった為に、「官製不況」を引き起こしながら、戦後日本のバラック建て時代の価値観をそのまま残す本質的欠陥法である。司法制度の改革で、我々に突きつけられた本質的問題は、戦後日本のドサクサの価値観を捨て、安全で質の高い文化的な生活を送れる新しい価値観への変更を求められている事だ。

冤罪などの不祥事が起こるたびに、担当司法官個人や特捜など一部の組織に責任を転嫁して口を濁すなど、もっての他である。

北村 隆司