「割れ窓理論」の導入を! ─ 再び「大津市いじめ」事件について

北村 隆司

「芽を摘む」と言うと「若い芽を摘む前に、腐りきった巨木をどうにかしろ」と言う合唱に押される日本になって久しい。

しかし、「いじめ」は、幼い生徒を自殺に追い込む「犯罪」にならないうちにその「芽」を摘むべきで、「どんな些細な」いじめでも見逃してはならない。

1993年にニューヨーク市長に当選し、NYの再生に成功したジュリアニ市長は日本でも有名だが、彼が採用した「割れ窓理論」は余り知られていない。


「割れ窓理論」をウイキペデイアで検索すると、ある心理学者が「“例えば、壊れた窓を放置すると、やがて他の窓も全て壊される”様に、人は匿名性が保証され、責任が分散されていると、自己規制意識が低下し、情緒的・衝動的・非合理的行動が現われ、また周囲の人の行動に感染しやすくなる」と言う理論を実証し、それが、「割れ窓理論」として知られる様になったらしい。

要するに「悪事は芽の内に摘む」と言う日本の格言を「軽い悪事でも徹底的に駆除して、その後の犯罪につながらない様にする環境犯罪学上の理論」にしたと考えれば手っ取り早い。

ジュリアニ市長は就任早々から、この「割れ窓理論」を徹底的に実践した。地下鉄のグラフィティ(落書き)は毎日消し、ビルの清掃命令、ホームレスの追放、軽微な違反行為(ごみ分類、交通違反)の取り締りに、地域社会の協力を要請し秩序の回復に努力した。又、犯罪の少ない日本に学び、交番の代わりに事務処理に手を取られていた多くの警官を街角に立たせ、「交番」と言う言葉が流行した事もあった。

同氏は犯罪の温床と思われる微小な事に厳しかったばかりか、巨悪にも厳しく、マフィアのトップの一掃、マフィアの資金源であった魚市場の移転やSEXビジネスの撲滅作戦に乗り出すばかりか、汚職警官を次々と告発して警官の規律を正した。その結果、犯罪率は半減し、ニューヨーク市は全米でも最も安全な大都市となったといわれる。

一方、裸腰のアフリカ移民を警官が誤射殺するなどの行き過ぎも誘発し、その強権的な手法に「ジュリアーニはヒトラーだ」と言う批判も多く出た。

だからと言ってNYの教育問題が解決した訳ではない。それどころか、「学級崩壊」を防ぐ為の「秩序回復」を目指した「割れ窓理論」が最も苦戦をしたのが、「自由な教育」を叫ぶ、市の教員組合やPTA連合会が牛耳る教育現場であった。

後任として市長に就任した億万長者のブルンバーグ市長は、穏健な姿勢に見えるが、やる事はジュリアーニ市長より強硬で、児童の肥満に歯止めがかからないと見るや、学校内の児童販売機からコーラ類を全て追放したり、「教室の統率が取れない」と言う理由で、公立校内への「携帯の持込禁止条例」を発令するなど「割れ窓政策」を強化している。

公立校内への携帯持ち込み禁止条例の完全実施は、全校に空港警備の様な装置を入れない限り不可能に近いが、それでも、当然訴訟沙汰になった。その訴訟も、「携帯込禁止による公共の利益は、親の心配を上回っており、自由の束縛にも当たらない」として、州の控訴審段階までは合憲判決が下りている。

全米の教育事情も微妙に変化し、組合やPTA連合会の反対をよそに「バウチャースクール」「チャータースクール」「マグネットスクール」「ホームスクール」等の、公立学校の多角化が地方を中心に人気を博し、これ等の新しい選択肢が、全米の「優秀公立校」の上位を独占する状態になると、「規律尊重」に対する反対意見は勢いを失う様になって来た。

しかし、携帯問題については「テロや想定外の悲劇に襲われた時の事を考えているのか!」「教室内での携帯使用禁止は賛成するが、登下校時の携帯は子供安全保障には欠くことの出来ない道具だ」「子供が、校内暴力やいじめにあった時の命の綱が携帯だ」と訴える親の反対論に対する有効な回答を、市当局が出しているとは言えないのが現状だ。

そろそろ、「携帯の持込禁止」問題から本題の、教育現場における「規律の重視」の賛否に戻したい。

私は、「いじめ」の事実や「いじめっ子」を特定する事も大切だが、「いじめ」を見ても見ないする風潮をなくす事の方が重要で、日本でも「割れ窓理論」を適用して、「意地悪」程度の些細な行為でも厳しく問い詰める時代ではないかと思っている。

「ゴミ箱」がないのにごみ一つ落ちていない日本に、「いじめ」がやたらと多い裏には、「ごみ」には厳しくとも、「いじめ」は何かと理屈をつけて見逃す世相が一因ではなかろうか。

「大津市のいじめ事件」に関する多くの論議に接し「日本には宗教教育はない」と言う新渡戸稲造の説明に驚いたベルギーの高名な法学者ド・ラヴレーに「宗教教育がない! それではあなた方はどの様にして道徳教育をさずけるのか?」と問われて愕然とした新渡戸が「自分が子供の頃に学んだ人の倫(みち)たる道徳の教えは、学校で習ったものではなく、自分の善悪や正義の観念を形成しているさまざまな要素を分析してみて、その様な観念を吹き込んだものは武士道だった事に気ずいた」と書いた「武士道」の序文を思い出した、

「人の倫」と言われてもピンとこない世代が多数を占め、「違法行為」は理解できても「不道徳」を問わなくなった日本。

次代を背負う子供達と共に「何を糧に“人の倫”を学ぶべきか?」を、新渡戸博士の「武士道」と言う結論とは関係なく、真剣に考え直す時期に来ていると思う。

「いじめ」は「些細な事ではなく、人間として如何に卑劣な行為であるか!」を学び直す為にも。