オスプレイの既視感

池田 信夫

米軍岩国基地に配備された輸送機「オスプレイ」をめぐって、山口県知事が森本防衛相に抗議文を渡し、防衛相は「安全性が確認されるまで飛ばさない」と約束した。

「安全性の確認」とは何だろうか。絶対に墜落しないということだとすれば、そんな飛行機は世の中に存在しない。兵器に「ゼロリスク」を求めるのはナンセンスだ。戦争では多くの生命がリスクにさらされるのだから、それをいかに有効に抑止するかがもっとも重要だ。「地元の感情に配慮して」というのも筋違いだ。これは米軍内部の問題であり、地元はおろか日本政府にも介入する権限はない。


そもそもオスプレイ(MV-22)は、危険なのだろうか。騒がれ始めたのは、今年2回、事故を起こしたことがきっかけだが、2007年に実戦配備されてからの事故率は10万時間あたり1.93回。いま使われているヘリコプターCH-53Dの4.15回より少ない。古いヘリをオスプレイに代えることで、安全性は上がるのだ。

これをみて既視感を覚えるのは、私だけではないようだ。客観的なリスクを無視して「地元の不安」などの感情論で反対する。リスクは(既存の装備との)相対的な問題なのに、「安全性の確認」という無意味な言葉で絶対的な安全性を求める。配備をやめたら代わりの装備はどうするのかという対案なしに「いやなものはいやだ」と駄々をこねる――この騒ぎは原発の再稼働と同じなのだ。

おりから中国政府は、尖閣諸島にからんで強硬な発言を繰り返している。オスプレイはヘリより機動力に勝るので、尖閣諸島まで1時間で飛ぶことができ、抑止力として重要だ。日本政府がその運用を阻止するなら、自衛隊がオスプレイの穴を埋める必要があるが、そんな装備は自衛隊にない。感情論でゼロリスクを求める「万年野党ごっこ」をやっている間に、また尖閣で紛争が起こったらどうするのだろうか。