「いじめ庇護」に傾きすぎる報道─「勧善懲悪」が何故いけない?

北村 隆司

幼児が「火」や「熱湯」に近ついたら、理屈無しに厳しく叱り、子供に物心がついたら、真っ先に「善悪」の区別を教えるのが親としての最低の義務である。

日本の「いじめ」の直接的な原因は、親がこの義務を忘れ、「しつけ」の出来ていない「いじめ予備軍」を学校に送りこみ、「しつけ」を学校に任せ切っても当然だとする風潮が強い事だ。

子供の非行の一義的な責任が親権者にある事は、何処の国でも常識だが、何故か日本では、この常識が通じない。


賞めるべきは賞め、罰すべきは罰する「勧善懲悪」「信賞必罰」は、伝統や文化により賞罰の多寡は異なっても、万国に共通する倫理観で、これをわきまえない親が増えれば増えるほど、「いじめ」が増えるのは当然だ。

日本のマスコミが「時代遅れ」扱いする「勧善懲悪」は決して時代遅れではない。

日本のリベラルな学者とマスコミは、「いじめ」が起きると、親権者の責任を問わずに、なんでも学校の所為にする風潮も戦後日本の特徴だろう。

日本は、本当にへんてこな国になって仕舞った。

日本で「いじめ事件」が起こると、被害者は忘れられ、加害者の人権保護ばかり気にしている。これでは、「勧善懲悪」「信賞必罰」が成り立つ筈がない。

日本で「加害者の人権」が、何故これだけ擁護されるのか?

その一因は、子供を「ねた」にした金儲けや売名に忙しい「教育専門家」や「インテリ」の発言権が強い事と、その意見を取り上げて稼ぐ「マスコミ」にある。

個人攻撃は慎むのが本来だが、マスコミを利用して他人を攻撃する香山リカ先生と尾木ママ先生は例外として、「悪しき識者」の典型として取り上げてみたい。

お二人の共通点は、常識さえあれば解る簡単な事を、屁理屈をこね混ぜて複雑にしてマスコミに売り込む事と、言う事がころころ変わり、批判ばかりで対案がない事や、「権利」と言う言葉が大好きで、「義務」は常に相手方にあると主張する事である。

香山先生は、毎日新聞の「ココロの万華鏡」と言うコラムで「いじめを行う側の心も相当、ゆがめられ追い詰められている。もう一度、考えてみたい」と書いたが、具体策も無しに、こんな事を書くのが学者なら、誰でも学者になれる。

被害者の人権は一顧だにせず、加害者の人権ばかり心配する香山先生は、精神医学の先生なのか患者なのか解らなくなる。こんな「脳タリン」を教授職に置く日本は誠に情け無い。

学者が、めまぐるしくその主張を変える事も芳しくないが、尾木ママ先生に至っては、日和見どころか無節操とも言える変節の連続である。

ある都立高校長が、国旗掲揚、国歌斉唱を命じた都教委の通達の是非を教職員の挙手採決にかけて訴訟事件に発展した事件で、校長を擁護した進歩的学者、文化人の中心人物であった尾木先生は、「学校から言論の自由がなくなる」と言う小冊子で

いま、教育委員会と言う組織の役割とあり方そのものが問われている。現在のような非民主的制度では、必然的に閉じられた組織にならざるを得ない。閉じられた組織というのは、往々にして異常なことをおかす傾向があり、霞ヶ関の官僚などはその典型である。閉じられた組織は。普通の市民や社会の感覚を失い、薬害エイズ問題、年金問題、食品偽装問題など、いずれも官僚の閉鎖的な体質が、問題をさらに深刻化させた典型である。もし、民間企業なら、そんな会社はとうに倒産している。

と教育委員会の制度的不全をこっぴどく批判した。

かと思うと、大津市の「いじめ自殺問題」では、読売新聞の取材に応じ「今後は大津市教委ではなく、滋賀県教委や文部科学省による心のケアが必要」だと言い出し、それに呼応する様に、文科省幹部も「必要があれば指導助言したい」と息の合ったエールを交換する体たらくである。

これでは橋下市長が「インテリは何も知らず、責任も取らずに勝手な事をしゃべって、小金を稼ぐのに忙しい」と非難するのも当然である。

尾木ママ先生の変身振りには、他にも前科がある。
「留年させても府民の子どもの力をつけてもらう、という案を橋下さんが出してきたら、僕は大喝采します」と言う尾木ママ先生の提言に乗った橋下市長が、小中学校での留年を実行に移そうとすると「国際的に(義務教育での留年)は常識だけど、日本ではいじめなどデリケートな問題もあるので、『そんなにあわてないでよ』と言いたい」と再提言して逃げてしまった。 

マスコミは、いじめや自殺問題が起こる度に、「被害者の自殺との因果関係を特定出来ない」というフレーズを無批判に使ってきた。然し、因果関係を 証明できる唯一の証人が「もうこの世にいない」以上、因果関係の特定はむずかしく、又、それほど重要でもない。

質の悪い「専門家」の口車に乗せられて、この馬鹿げたフレーズを無制限に受け容れてきたマスコミは、「いじめ」の撲滅を語る資格もない。

心すべきは「いじめを行う側の心」ではなく「被害者の心」であり、加害者の親権者の責任を厳しく追及すべきである。

いじめ事件が起こる度に、加害者の親権者の責任が厳しく追求される事が慣習化すれば、親も子供の躾と行動にもっと注意深くなる事は間違いなく、やがて「いじめ」の減少につながるのではなかろうか。

学者先生がこの考えに異議があるなら、「いじめ」を起こした子供の親権者の責任を厳しく追及する「学校方針」を掲げる学校設立の自由を保障するべきである。