小幡績氏の政党育成論に反論する --- 島田 裕巳

アゴラ編集部

小幡績氏から批判を受けたので、ここで反論をしたい。

まず私のツィートは、「最近の政治を見ていると、政党という単位が機能しなくなっているのがよく分かる。民主党も政権をとるための道具で、政治結社ではなかったようだ。これから、維新など新しい政党が生まれるのだろうが、政党としてのまとまりを維持するのが難しいだろう」というものだった。

これに対して、池田信夫氏が賛意を示してくれたが、小幡氏は、池田氏も島田も政党政治が分かっていないと批判している。


現在の政治状況が混沌とし、混迷状態にあるのは、政党が自分たちの政治組織を結束させる軸が失われていることにある。

そのとき重要なことは、個々の政党を支える社会的な支持基盤だが、案外この点が議論されていない。イギリスやアメリカで二大政党制が基本的に維持されてきたのは、この二つの社会において、階層が二つに分かれ、対立関係にあるからである。

日本の場合も、55年体制のもとでは、自民党に対して社会党が対抗するということで、二大政党制に近い形態が維持されていた。それも、自民党に結集し、その政策に期待し、そこから利益を得ようとする保守的で、比較的豊かな階層があり、その一方に、労働組合に加入し、政治を通しての富の分配を求める、自民党支持層に比べれば十分に豊かさを享受していない階層が存在したからだ。

筆者が専門に研究している公明党は、創価学会という宗教団体を主な支持基盤にしてきたが、創価学会の会員となった人々は、中小の企業や工場、商店などに雇用され、労働組合に加入できない、もっと貧しい階層の人間たちだった。

このように、55年体制が続くなかでは、各政党には固有の支持基盤があり、それが社会階層と連動していたため、それぞれの政党は長くその組織を維持できた。

ところが、バブルが崩壊し、経済成長が社会全体に恩恵をもたらすことができず、また政府が財政赤字に苦しむようになると、そうした政党と社会階層との関係も根本的に変化した。それによって55年体制は崩れ、政治の流動化が起こり、各政党が固有の支持基盤を失うことで、多くの無党派層が誕生した。

政権をとるには、無党派層を取り込む必要が出てきたが、そうなると小泉政治に見られるように、大衆迎合主義になり、いかにそのときの選挙に勝つかだけが焦点となった。

そうした状況のなか、社会的に明確な支持基盤を失った政党は、結集軸を失い、今度は、各議員が政党に対する忠誠心を持たず、自分の選挙だけを考えて行動するようになった。それが、今の事態であり、民主党は徐々に瓦解し、維新の会のような勝てそうな政党へという流れが生まれた。

維新の会の政策は、これまで述べてきたように、財政事情が厳しいなかで、統治機構の組み替えという方向を打ち出すしかなかった。政党化した維新の会が、政権の座につく、あるいは政権の一翼を担うようになっても、憲法改正を必要とする統治機構の組み替えは容易には進まない。

とこが、そのあいだに、現実的な政治課題や問題は噴出してくるわけで、その対応、処理をめぐっては、党内に必ず対立や不協和音が生じる。現実的な問題に対する具体的な政策の提言が行われておらず、党員のあいだにその点でのコンセンサスがないからだ。

そうなると、維新の会は現在の民主党と同じ運命をたどる。それは、時代的な必然であり、政党が結集軸となり得ないことが、より鮮明になっていくはずだ。

小幡氏は、責任を有権者に求め、ある意味そこに希望を見出そうとしているが、そこには可能性は少ない。氏はもっと、現在の社会の変化が政治にどういった影響を与えているかを分析すべきだ。

小幡氏お得意のパヒュームやAKB48なら、育成論は成り立つだろう。ファンの暖かい声援が彼女たちを育てていく。

しかし、有権者が政党を育てるというのは、本末転倒ではないか。育てようにも政党を構成する党員、議員は、自分たちの選挙だけのことを考えて行動しているわけだから。

島田 裕巳
宗教学者、文筆家
島田裕巳の「経堂日記」


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