私は2005年から11年にかけて、東大先端科学技術研究センターの御厨貴研究室で特任研究員と客員研究員をつとめていた。その研究室では政治学や行政学の若手研究者が中心となった研究会が開かれていた。私もその研究会に出席し、政治学研究の最新の動向にふれることができ、いくつか興味深い研究にも出会った。
その一つが、山本健太郎氏による国会議員の政党間移動についての研究である。これは、『政党間移動と政党システム』(木鐸社)という本にもまとめられている。なぜ国会議員がそれまで所属していた政党を離党して、別の党に移っていくのか。そうした現象を、「政権追求」と「政策追求」という二つの側面から理論的に分析したものである。重要なポイントは、たんに議員の側の「再選動機」を追うだけではなく、移動する議員を受け入れる政党の側の都合をも分析の対象としたところにあり、議論は「政界再編」というところにまで及んでいく。
現在の政治状況とからんできてとくに興味深いのが、新進党と民主党を比較した部分である。新進党は政策を鮮明にして求心力を確保しようとした。ところが、その政策に反対する議員の離党を促し、それが解党に結びついた。一方、民主党は、政策をあえて曖昧にすることで、異なる政策を支持する幅広い議員を党につなぎとめることに成功した。それが、新進党に比べてはるかに長続きし、政権交代を実現させる要因になったというのだ。
示唆的なのは次の部分だ。「政権を獲得した民主党にとっても、これまで曖昧にしてきた政策について何らかの旗幟を鮮明にすることが求められることが予想され、それは幅広い政策ウイングの議員を抱え込んできた民主党にとって、分裂リスクに直面することを意味する」と、山本氏は今日の事態を予見するような分析を行っている。本が刊行されたのは2010年9月のことだ。
もちろん、今民主党からの離党者が増えているのは、ただたんに再選動機にもとづくもので、次の選挙が危ういからにすぎないという声もあろう。しかし、民主党という政党のあり方そのもののなかに、根本的な危うさを含んでいることも事実である。
私が山本氏の研究にとくに関心をもったのは、私の専攻する宗教学の研究と重なる部分があると感じたからだ。新宗教においては、信者の「教団間移動」ということが頻繁に起こる。あるいは、別の教団ではなく、それまで所属していた教団に批判的な集団に加わるということも少なくない。そのプロセスは、議員の政党間移動と重なる部分をもっている。
信者が教団を辞める場合、その理由はさまざまである。なかには、別の教団に移ることで、それまで所属してた教団のノウハウを応用し、それで新しい教団のなかでのし上がっていく例だってある。とくに元創価学会の信者の場合には、別の教団に移って幹部になっていったりする。創価学会は、日本で最大の新宗教教団であるだけに、組織運営や布教のノウハウが確立されているからである。そうした人間が入ってくることで、それを受け入れた組織も影響を受ける。
ただ、宗教教団を辞めるというときには、二つのパターンがある。一つは、自分で自発的に辞める場合で、もう一つは、教団の側から脱会を強制される場合である。教団に反抗したり、教団とは異なる主張をしたりすれば、脱会を強いられる。これは、政党でも同じことである。
自分から辞めるなら、それは自発的な意思にもとづくもので、自分で納得しての行動である。それに対して、辞めさせられることは、自分の意思に反した不本意な行動である。その点では、辞めさせられた方が、心理的に尾を引くように思える。ところが、実際の例から考えると、必ずしもそうではないように思える。
私が、学生時代に「ヤマギシ会」という共同体の運動に加わったことがある。ヤマギシ会は理想社会の実現をめざす運動体で、当時は、学生運動崩れの若い世代が多かった。私は、そこで7カ月生活し、出てきた。ヤマギシ会は宗教団体ではないが、特定の思想を核にしている点でかなり近い。私は宗教教団からの脱会者だと言える。
ヤマギシ会を抜けた当時、やはりどこか負い目を感じていた。その後、ヤマギシ会の脱会者が多く参加した別の運動に加わったのも、その負い目から逃れるためだったのかもしれない。あるいは、大学院に進んで共同体について研究をしていたのも、動機は同じだったように思う。自分で決めて出てきたにもかかわらず、どこかそこに未練があったのだ。
自分で脱会を決めるというときには、残るか残らないかを選択できるわけで、その分自由ではあるものの、どちらに決めても、果たしてそれで正しかったのかずっと迷いが残る。ときには、自分の選択が間違っていたのではないかと思えてきて、脱会を後悔したりする。
実際、ヤマギシ会の脱会者のなかには、途中で戻ってしまった者もいた。村上春樹氏の『1Q84』に登場するさきがけのリーダーのモデルになった新島淳良氏も、ヤマギシ会を脱会して、一時は激烈なヤマギシ会批判をしていたが、最後は戻ってしまった。
むしろ未練が残らないのは、強制的に辞めさせられる場合だ。もちろんそれは不本意なことで、当初はなぜ自分がそんな目にあわなければならないのかと悩んだりもするが、戻ろうにも戻れないのだから、そうした点での未練は残らない。
これは、相手が宗教団体ではなく、大学だが、私がオウム事件でバッシングを受け、大学を事実上辞めさせられたときには、二度とその大学に戻れないのは明らかだから、戻りたいという未練だけは残らなかった。
自分で組織を抜けるというときには、自分が決めたわけだから、その責任はすべて自分にある。組織の方が間違っていたのだと言い募っても、それは自分の責任を棚上げていることになり、説得力をもたない。組織が悪いなら、組織のなかで改革に力を尽くすべきである。十分にあがいて、反抗し、それで辞めさせられたというなら、周囲もその努力を認める。だが、ただ自分から辞めたというのでは、自分を守ろうとする身勝手な振る舞いとしてしか受け取られない。
組織というものは自分で辞めるべきものではない。辞めさせられるまでとどまるべきものである。組織にいるあいだは、自分の信念に従って行動し、組織を批判するなら内部ですべきである。企業なら、よりよい条件を求めて転職することも許されるが、それだって、自発的な退職が裏切り者扱いされることもある。
自分で辞めれば未練も残る。自分の選択が正しかったのかどうか、後になって迷い続ける。それは、選択を行った自分に対する自信喪失にも結びつく。自信のない政治家は有権者から信用されない。
一度政党に所属したら、その政党が解体するか、自分が追い出されるまでとどまるべきである。それ意外に道はない。所属した政党とともに自分が死ねば、再生の道も開かれる。しかし、一度死ななければ再生など不可能である。
民主党を出るのも地獄、残るのも地獄なら、間違いなく残る道を選ぶべきである。
島田 裕巳
宗教学者、文筆家
島田裕巳の「経堂日記」