アメリカコネチカット州で起きた小学校銃乱射事件。日本は選挙直前ということもあり、ニュースが小さい扱いでしたが海外ではきわめて大きく、そしてクリスマスを前にあまりにも悲劇的な事件として大きく取り上げられました。
アメリカでは何度も何度も同じような事件がおきているにもかかわらず銃規制が進む気配はありません。
なぜなのか、その原点について考えてみたいと思います。
まず、今回の事件を受けてオバマ大統領は氏の大統領就任以来4度目の銃を使った大量殺人に対して「全権力を使う」と宣言し、本気でその規制に立ち向かう姿勢を見せています。ただし、銃規制が過去、クリントン政権のときに時限立法として成立し、ブッシュ政権の際に失効している経緯からすると憶測ですが、うまくいったとしても似たような形の規制にとどまるのではないかという気がしております。
ではなぜアメリカ人は懲りないのか、ということをずっと考えていたのですが、これは銃はアメリカの歴史である、という前提に立ってみると案外解明しやすいバックグラウンドのような気がします。アメリカの歴史は銃を使った戦争が常について回りました。南北戦争でもインディアンとの争いも第二次世界大戦も朝鮮戦争もベトナム戦争もすべて銃があっての戦争でした。
アメリカ映画では子供向けSF映画を含め銃やそれに類するものが必要不可欠のアイテムのごとく題材に使われています。これはとりもなおさず、アメリカ人すべてにおいて銃が非常に身近なものであるし、一般家庭にも常備薬のように備え付けられている現実を考えればいまさら銃のない生活は裸で喧嘩に立ち向かうようなもの、ということになるのでしょう。
では日本の歴史において喧嘩する武器は何だったでしょうか? 刀です。そして今でもNHKの大河ドラマを始め、さまざまなシーンで刀を使って戦いをするところを日本人は普通に見続けています。結果として日本人は護身として刀に似たナイフを持つことが一時、話題となりました。今でも社会面で見かける殺人事件はナイフや包丁を使ったものが非常に多いわけで、銃はもともと手に入りにくいということよりも日本人の歴史になじんでいないように見受けられます。
ではアメリカの隣国であるカナダはどうかといえばカナダ統計局によると銃による殺人事件は2011年は過去50年間で最低となったとのことです。あるいは世界で起きた銃による大量殺人について過去50年間でみると25件のうち15件がアメリカで起きているとのことです(バンクーバーサン紙より)。つまり、銃の問題はアメリカ独自の問題であると考えてもおかしくはないのです。
しかし、人類の歴史の中で銃はヨーロッパなどでも大きな影響があったはずですがアメリカに比べれば圧倒的に少ないのはなぜでしょうか? これは社会学者や専門の方が説明できると思うのですが、欧州はコミュニティの結びつきがより強く共同体形態であるのに対してアメリカは個人主義が強く、信じるものは自分である、というスタンスが押し出されすぎているように思えます。個人主義ゆえに自己防衛機能が働き、結果として護身の武器が必要である、ということになるのでしょう。
なぜ個人主義かといえば、努力するものは報われる、そして強いものはより強く、という根本思想が介在しているとみてもよいのではないでしょうか?
アメリカで銃規制は財政の崖を乗り切るより難しいことにみえるのは政治家同士の決着のレベルではなく、国民に広く浸透したアメリカのバックグラウンドであるためです。アメリカはこの悲劇を「二度と起こすまい」という気持ちよりも「また起きてしまった」という言葉に置き換えているような気すらします。そしてこのような事件が起きれば起きるほど銃規制は余計難しくなるというのが現実ではないかと思います。これは病めるアメリカが治癒できない難病に陥っているといっても過言ではないと思います。
アメリカは目を覚ますのでしょうか?
今日はこのぐらいにしておきます。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2012年12月18日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。