安倍首相には「デフレは貨幣的現象だ」という思い込みがあるようだが、日本のデフレは生産コストの変化による実物的現象だ、というのが吉川洋氏の説明である。世界で日本だけが15年間に10%以上も名目賃金が下がり、これがほぼデフレ率に見合っている。日銀のオペレーションは一般物価水準を動かすものだから、賃金を変えることはできない。
男性大卒労働者の賃金カーブ(所定内賃金月額・百円)連合調べ
賃下げの原因として誰でも思いつくのは非正社員の増加だが、意外なのは中高年社員の賃下げも進んでいることだ。上の図のようにここ15年で50代のサラリーマンの平均賃金は新入社員の3.3倍から2.5倍まで下がり、絶対額でも月額13万円ぐらい下がった。おおむね40歳前後が労働生産性のピークなので、確実に年功序列は解消に向かうだろう。
これは言い換えると、日本のサラリーマンが雇用を守るためにワークシェアリングをしていることを意味する。おかげで日本の失業率は4%程度と、アメリカのほぼ半分だ。中国との単位労働コストの差はまだ2倍近くあるので、これは合理的なコスト調整であり、単純労働者の賃金は中国に近づいてゆくだろう。
他方、労働組合が定率の賃上げ要求を行なうアメリカでは、経営側がその要求をのむ代わりにレイオフを行ない、労働者が低賃金のサービス業に移動する。つまり新興国との賃金調整という同じ問題に対して、価格調整(日本)と数量調整(アメリカ)という別の答を出しているわけで、どちらがよいとも言い切れない。
短期的な社会的コストは日本のほうが小さいが、過剰雇用が残って企業収益が上がらない。他方、アメリカでは失業率が高いが、生産性の低下した部門から成長部門に労働人口が移動し、労働生産性が上がる。次の図のように、ここ15年の日本の労働生産性上昇率はアメリカの85%ぐらいで、この差が潜在成長率に影響している(ツイッターで教えてもらった)。
この間に日本の非正社員の比率はほぼ倍増し、世代間の所得格差は拡大した。他方、アメリカでは「上位1%にGDPの23%が集中する」という垂直格差が拡大した。つまり
・日本:賃下げ→雇用維持→デフレ→世代間格差の拡大
・アメリカ:賃上げ→失業→インフレ→垂直格差の拡大
という形で、新興国との競争が異なる種類の格差を生み出しているのだ。いずれにしても、単純労働者の賃金が新興国に近づいてゆくことは避けられないが、なるべく社会的コストの少ない形で調整する必要がある。日本の方式は若者には不公平だが、50歳以上の老人もそれなりにコストを負担しており、どちらがよいとは一概にいえない。
いずれにせよ、こうした微妙な賃金調整がデフレと呼ばれる現象の最大の原因であり、「デフレ脱却」とか「インフレ目標」とか叫んでみても何の役にも立たない。まして首相が財界に賃上げを要求しても、収益の悪化している企業が上げるはずがない。原因と結果を取り違えた日銀悪玉論は、そろそろやめてはどうだろうか。