中国では清明節がやってくる。旧暦の4月4日から4月6日まで3連休が与えられる。「清明」とは「春風が吹き、暖かくなると、空気は新鮮で爽やかになり、天地は明るく、清らかになる」からそう呼ぶそうだが、今日、この国で「清らかな空」「清らかな水」などを見るのは、不可能に近い。
親に仕える道を重視するといわれてきた中国人は、同時に「生者に仕えるように死者にも仕える」という考え方もあったたらしい。そうした古き良き伝統は、経済の成長と共に急速に廃れつつあるのだが、新人類といわれる1990年代生まれの学生らにたずねると、故郷が近く、比較的お金に不自由していない者は、墓参りのために帰省すると述べている(中国の大学生は一般的に寮生活である)。中国人にとって墓は、そこに先祖が住んでいるという発想のようだ。昔は土を盛りなおしたりしたようだが、今では墓石が置かれるようになり、大規模な修繕は必要なく、風雨にさらされた墓を掃除する。そのため「掃墓節」とも呼ばれている。さしずめ日本の「御盆」といえるだろう。
さて、中国人民網日本語版(2013年3月31日)は、中国外交部洪磊報道官の定例記者会見の模様を伝えていた。これによると、わが国の安倍晋三首相は靖国神社の参拝を見送り、4月下旬に供物を奉納する予定だという。
私は、日本国民がその宗教心から、いついかなるときに靖国神社を参拝しようと、誰からも忠告を受けるものではないと思っている。安倍首相もしかり、公務政務で真に参拝できないという理由から参拝せぬというなら何も言わないが、中国や韓国を刺激しないようにという、内政干渉や主権侵害をしてやまないこの厄介な国々を利し、その歴史認識の固定化、外交上の従属化を図ろうとしている魂胆を見破れぬというのなら、やはり一国の首相の器にあらず、と言うべきであろう。
記事は続けて「靖国神社問題は日本が侵略の歴史を直視し、反省できるか否か、中国を含む無数の被害国人民の感情を尊重できるか否かに関わる。過去を直視してのみ、日本の未来は開ける。日本側が歴史問題においてこれまでに表明した姿勢と約束を的確に恪守し、実際の行動によって国際社会の信頼を得ることを望む。」と述べている。
大きなお世話である。
否、隴を得て蜀を望むがごとく、一つ従ってしまえば、もう一つのことを要求してくる。国家の名誉や主権の侵害については絶対に譲歩してはならない。実は、靖国神社を参拝をされて困るのは反日暴動から反政府運動に変化したときの中国共産党なのであり、統治の正統性については彼らの内政問題、我々の関知する所ではない。もっといえば、日本の政治家と日本国民が中国の文化大革命や天安門事件について触れまわったらどうなるか。チベットへの軍事侵攻や東トルキスタン(ウルムチ)の民族浄化について、大陸と台湾の両岸の主権問題について、我々日本人が口出しすれば、どうなるか。
毎週水曜日の18時半、我が家には日本語会話の練習のために学生達がやってくる。基本的に自由な発言をしてもらっている。靖国神社や南京事件、日本の教科書問題について尋ねられたこともあるが、その都度、私は「自国の信教について他国に非難されるいわれはない。君達が同じことをされたら、どう思うか」と押し返す。さらに「新聞やニュースはすべて共産党の宣伝広報だと知り、つまらない、嘘ばかりと言いながら、そこに疑問や批判を加えず、彼らと同じようなことを、皆で同じように言うのは、大学生として怠慢ではないか? 個人の見解というものはないのか? 外国語学院の学生なのだから、もっと視野を広げなさい」と付け加える。今日(4月3日)も学生達はやってくる。明日から清明節の3連休になるため、今晩は共に酒を飲むことになっている。
清明─天地が明るく、清らかになる─中国全土が比較的謙虚な姿勢に包まれるこの時期こそ、日本の政治家は靖国神社の参拝がしやすいのである。どのみち中国共産党は黙っていない。そうなれば日本の政治家は、「どこの国にも死者の奉り方がある」「民族や地域によって死者の奉り方は異なる」、「中国共産党は綱領にあらゆる宗教や信仰を認めず、祈願や参拝という概念も否定している。このほうが国際社会から理解されがたいのではないか」と明言すれば、内外から多くの共感が得られよう。
いまや中国では墓参りや墓掃除を代理で行う業者が繁盛し始めているという。「清らかな空」「清らかな水」のみならず、「生者に仕えるように、死者にも仕える」という伝統的精神まで失われつつあるようだ。この国はどこへ向おうとしているのか。中国共産党は、自国の未来の心配をしたほうが良さそうである。
半場憲二(はんばけんじ)
中国武漢市 武昌理工学院 教師