「被害者意識」のその他の典型例

松本 徹三

先回の記事で、日本人は何故か、妥当な理由もないのに自分を「被害者」と思い込む性癖があるという事を書いたが、これにはまだ続きがある。「技術を盗まれた」とか「これからもどんどん盗まれる」というのが別の典型例だ。


相当以前のアゴラで、「シャープの現在の苦境は、佐々木元副社長がサムスンに自社の技術を惜しみなく教えてしまったからだ」という趣旨の誰かの記事を読んだ記憶があるが、これもその典型例の一つだ。それ以外にも、「韓国や中国は今や日本を脅かす存在になっているが、元はと言えば日本が技術を教えてやったからだ(教えなければ良かった)」という趣旨の発言や記事は枚挙の暇もない。

そう言えば、欧米人も、かつては技術的にどんどん自分達を追い抜いていく日本に嫉妬し、「奴等は所詮は人真似がうまいだけ」と負け惜しみを言っていた。事実、明治維新以来、日本で培われた技術の殆どは外国から学んだものだが、その事を卑下する必要は全くない。「人真似がうまいだけ」と言えば、何となく悪いイメージになるが、「飲み込みが早く、たちまちにして習得する」と言えば、良いイメージになる。

しかし、その一方で、自分達が欧米人に教えられてここ迄きた事を棚に上げて、日本から多くの事を学んだ(と思われる)韓国人や中国人の事を悪くいうのは、勿論全く筋が通らない。こんな事をいつまでもブツブツ言っているのは格好が悪いから、一日も早くやめた方が良い。

どんな分野であれ、全く新しいものを創造出来るのは、ほんの一握りの人達だけで、後は、基本的に他の誰かが創造したものを真似ながら、そこに新しい工夫を付け加えているだけだ。しかし、それはそれで立派な仕事なのだ。「学ぶ」という言葉は「真似ぶ」から来たものだし、料理人の世界などでは「先輩の技を盗む」という事は大いに推奨されている。

弟子が先生より偉くなる事も常にあることだ。「出藍の誉れ」という言葉があるように、その場合は先生も弟子も大いに賞賛される。元々はシャープから学んでいたサムスンがシャープより偉くなったのなら、それこそ「出藍の誉れ」であり、大先生だった佐々木元副社長も賞賛されて然るべきだ。少なくとも同氏をそれ故に難詰するのは全くの筋違いだ。

「天麩羅」は今や日本を代表する料理の一つだが、元々はポルトガル人が教えてくれた「テンペラード」だった筈だ。現在のポルトガルは経済的に苦境にあるが、こんな事になるのなら日本人にテンペラードを教えずに、日本に言って天麩羅屋をやっていればよかった等と考えている人はいないだろう。

日本の海軍は英国に一から教えてもらって創設されたものだが、その後、英国の誇るプリンス・オブ・ウェールス、レパルスの二戦艦はマレー沖で日本海軍の航空機に撃沈された。しかし、英国人が「こんなことなら日本に教えなかったらよかった」等と言ったとは、聞いた事がない。英国が教えなかったらフランスか米国が教えただろうし、そのついでに軍艦や装備品なども大量に売っただろう。

本来は、教えられた方がやっと追いついてきた頃には、教えた方はもっとずっと先に行っているというのが普通だ。内弟子は普通は外弟子よりは有利な筈だ。それが現実にはそうならなかったとしたら、先生や内弟子の方に油断があったか、或いは努力を怠ったからだろう。

確かに一時期、週末のソウル便は日本人の技術者で混雑していたという事実がある。週末にこっそりと一人で韓国に行き、自分の知っている事や経験してきた事を色々と教えるだけで、下にも置かないもてなしを受け、相当額の謝礼金も貰えるという事は、一部の技術者達にとっては、単に経済的なプラスだけでなく、技術者としての誇りも感じられる事だったに違いない。

しかし、精神論でその事を難詰するのはフェアではないし、筋違いだ。自社の社員にそういう事をさせたくないのなら、社内できちんとそれを禁じるルールを作って、違反者にはペナルティーをかければ済む事だ。

同様に、定年退職した金型技術者などが中国で新しい職場を見つけることを、「技術流出」だといって目くじらを立てるのも馬鹿げている。普通の金型の製作が日本では真尺にあわなくなったのなら、やるべきことは二つのうちの一つしかない。企業自体が中国などに進出して自ら仕事をするか、或いは、自らは「難しい最先端の金型」に特化し、「少し経験を積めば誰にでも出来るから、やがては価格勝負になるしかないもの」は忘れてしまう事だ。

もし定年退職した金型技術者にどうしても中国に行ってほしくないのなら、「そうしない」という誓約書を書いて貰う事にし、その代わりに退職金を二倍に積みますべきだ。本人はまだ働きたいのに、定年制度で追い立てておいて、「一旦勤めた会社には死ぬ迄忠誠を尽くせ」と言うのはフェアではない。

「昔はこちらの方がはるかに進んでいたのに今は抜かれた」という事実があるのなら、最大の理由は「その間にこちらは向こうほど努力しなかった」と考えるのが自然だ。「自分達が教えなければもう少し時間が稼げた」というのはその通りかもしれないが、いずれにしても五十歩百歩で、大勢を変える程のものではなかった筈だ。(日本海軍は、先生が英国海軍でなくとも、早晩同じレベルに達しただろう。)

日韓の差については、極めて印象に残る話を一つ聞いた事が私にはある。日立製作所がある試験機器を開発して、日韓の各メーカーに売りに行った時の話である。先ず、日本のメーカーを回ったが、ひとしきりプレゼンテーションを終えると、「使えるかもしれませんね。検討してみましょう」という答えがあっただけで、その後長い間さしたる進展はなかったという。

これに対し、韓国メーカーの場合は、プレゼンテーションを始めようとすると手で制せられて、「先に送って頂いた資料は既に全てよく読んでいますから、あらためての説明は不要です。それよりも、我々の具体的な質問に答えて欲しい」と言われ、いきなり極めて熱心な詳細の質疑応答に入ったという。万事にわたりこれが現実だとなると、これでは勝負にならない。

今持っている知識は直ぐに陳腐化する。陳腐化した知識に拘っていたら、益より害がある事の方が多い。開発の現場ではよくある事だが、若い人の方が最新の事情をよく知っているのに、高齢の権威者が自分の古い知識や経験に拘り、若い人達の言う事を聞こうとしない為に、開発の方向を誤る場合がある。

何よりも必要なのは、「旺盛な好奇心」「捉らわれない視点」「誰からでも学ぼうとする貪欲さ」「飽くなき向上心」「果敢な行動力」等々、どれもが若い人達が生まれながらにして持っていそうなものばかりだ。それなのに、現在の日本を見ていると、それがあまり見られない。韓国や中国の若者達に比べても、この点で見劣りしているように感じられるのはどうしてなのだろうか?

私は、この原因は、社会全体が若さを失いつつあるからではなかろうかと思っている。「高齢化社会」の問題とは、「社会の構成員の平均年齢が高くて、働き手が少なくなっている」という問題だけではない。「反応が鈍い」「発想が画一的で権威主義的」「改革や冒険を恐れる」「何事にも一呼吸措くのが習い性になっており、行動が遅い」等々、高齢者によく見られる「特性」が、社会全体で支配的になっている事こそが問題なのだと、私には思えてならない。

これに対する処方箋は、「高齢者はもっと謙虚になり、若者はもっと挑戦的になる」事だと私は考えるが、多くの企業や組織を見る限りでは、現状はとてもそのような流れにはなっていないようだ。

現在の若者達が何故あまり挑戦的と言えないのだろうかという事については、私には一つ思い当たる節がある。私が子供だった時と比べると、現在は子供と大人の比率が逆転しているように思える。子供達は物心がついた時から、両親とその祖父母達の手厚い庇護の下にあり、自分が常に「周りを取り囲む大人達」の注目の的になっている事に慣れている。だから、無意識のうちに、周りの大人達の賞賛を得ようとし、失敗を恐れるようになる。

逆に言うと、「自分一人だけで、色々と想像をかき立てながら、未知の世界に踏み込んでいく」といった体験にはあまり曝される事がない。つまり、「想像の世界の中での挑戦」をあまり体験していないのだ。これは致命的な事のように私には思える。

「被害者意識」に逃げ場を求めて、「反省」も「挑戦」もしようとしない大人達は、先ずはさっさと退場し、若者達にもっと多くの「挑戦」の場を与えていくべきだ。職場に残った高齢者達は、どうすれば若者達が目を輝かせる職場が作れるかに、いつも心を砕いているべきだ。

そうしなければ、金融緩和をしようとするまいと、日本の経済は、周辺の途上国に比して徐々に衰退していく事を避けられないだろう。