米露の人権制裁合戦に思う、慰安婦問題の「報道の自由と責任」

北村 隆司

ロシア内務省当局者の横領を告発したマグニツキー弁護士(会計士)が、獄中死した事件を巡って、米露両国が制裁合戦を始めた。

「人権問題」が国際的な注目を集め出した陰には、「権力をチェックする権力」という意味で、「第四の権力」と呼ばれ、尊敬されて来たメデイアと、「人権NGO」の果たした大きな役割があった。


処が、日本の場合は、「三権に並ぶ権力を持つ警戒すべき機関」という意味でこの言葉が使われる程マスコミは堕落しており、日本人にピンと来る「慰安婦」問題でも、日本のメデイアのあり方が深く関与している。

情けないのは、メデイアだけではない。

「地方自治」と言いながら、それを監督する「自治省(現総務相)」があったり、権力の「足りない面」を批判し、補足するのが役割の「NGO」にまで、監督官庁が置かれる矛盾を当たり前の様に受け容れる日本国民の自立性の欠如も情けない。

世界のマスコミも劣化が激しいが、人権侵害の究極の姿である戦争を報道する「従軍記者」を見ると、海外のマスコミは、日本のマスコミとは、比較にならない力を発揮している。

「言論の自由=報道の自由」と考える民主国家では、「真実の僕」であるジャーナリストには、一定の制限はあるが敵地への潜入を認めて、権力の行き過ぎをチェックさせている。

しかし、戦争当事者の国籍を有する場合、その報道スタンスは微妙である。

ベトナム戦争報道で名高いピーター・アーネットAP通信特派員(当時)のキャリアーを見ると、記者として「真実の僕」であり続ける事の難しさが良く理解できる。

ジョンソン大統領やウェストモアランド・ヴェトナム派遣軍総司令官の執拗な解雇圧力に耐え、「真実の僕」を守り通したアーノット記者は、ピューリッツァー賞を受賞してその努力は実った。

その名声に酔ったのか、その後の彼には失敗が続く事になる。

第一の失敗は、「米軍は、ベトナム戦争で脱走兵の掃討でサリンを使用した」と言うセンセーショナルなスクープが、誤報だと判明した事件である。

しかも、誤報記事を実際に書いた記者やプロデューサーが解雇された際に、「私は名前を貸しただけだ」と言う弁解をして、男を下げ、CNN を辞職におい込まれた。

スクープ重視の日本のメデイアは、これを「他山の石」として欲しい。

第二の失敗は、米国と戦闘状態にあるイラク国営放送に出演し「米国の戦争計画の第1段階は失敗した」「イラク軍や政府の決意の強さ、国のために戦う決意の強さを米国人に伝える」などと自分の意見と事実を混同した発言を、紛争相手のイラクの国営放送を使って行い、米国民の批判が噴出して辞任(解雇)に追い込まれた事である。

第一の失敗は、記者としての失敗と言うより、個人の品性の貧しさによるもので余り重要だとは思わないが、第二の事件は「真実の僕」と言う記者の立場を忘れ、「ニュースを作った」もので、その罪は大きい。

「ニュースを作った」悪例の筆頭が、「慰安婦問題」の報道だ。 

日本での論議は、池田信夫、山際 澄夫。西岡力各氏を中心にした「朝日(特に植村 隆記者)」の「でっちあげ説」と、小倉秀夫弁護士などの「読売説」に分かれた「口喧嘩」が殆どで、事実の検証を巡っての充実した論戦は見えてこない。

植村記者の様に自国政府の誤りを指摘した勇気は見上げたもので、今後も奨励しなければならないが、充分な検証もしないで、自分の意見を事実の様に発表したとすれば、報道機関としては最大の侮辱である「捏造犯」と指名されてもやむを得ない。朝日や植村記者の、説得力のある反論を期待したい。

アーネット記者の失敗でもわかる通り、「トクダネ優先」の編集方針は、情報源を握る行政機関とマスコミが密着した取材に重きを置く傾向が強く、これが癒着を生む事になる。

こうして、記者の多くが「社会的弱者」のことも「権力のチェック機関」としての役割も忘れ「トクダネ」優先の為に、結果として、冤罪と言う最悪の人権侵害を生むことになる。

これでは、全体主義国家と何ら変わらない。

人権侵害の報道は、傍観者な立場では出来ない厳しさがある。

国際ジャーナリスト連盟の報告では、2003年から2011年までにイラク紛争の報道に当たった150人のジャーナリストと54人の報道補助員が命を落としたと伝えているが、日本からの犠牲者はいない。

これは、日本のマスコミの幸運かと思っていたら、そうでもないらしい。

あるブログに依ると、景気の良かった第一次イラク戦争には、日本のマスコミも多くの記者をイラク周辺に派遣しており、例えば、フジテレビだけでも39人もいたが、特派員は周辺国の安全地帯にいて、命がけのバグダッド取材はフリー任せであったと言う。

要するに、日本の特派員はただのヤジウマ的な存在だったのが、犠牲者の少ない理由の一つらしいという事だ。

従軍記者にしても米軍に守られ、規制されながらの取材であったそうで、これでは、米軍の批判記事や敗戦記事を期待しても無理な話で権力癒着報道の癖は海外でも生きている事がはっきりした。

今話題の元フジテレビの長谷川氏のブログを見ると、「ニューヨークではフジテレビは結構、恐れられ、権力を持っている」、「転勤に6週間の余裕しかなく、家族やペットの居場所を見つけるのに大変苦労した」、「全く英語が出来ないが、国連に取材に出かけた」など、恵まれたサラリーマンの愚口の様なものが並び、事の良し悪しは別として、このような人に「報道の自由」と言う大特権を与える事に疑問を感じた。

長谷川氏のブログを見る限り、「朝駆け、夜討ち」の「トクダネ」優先のマスコミがなくなりつつある様で、それ自体は誠に喜ばしい限りだが、生活を脅かす可能性のある権力の牽制や人権侵害報道を日本のジャーナリストに期待する事も難しそうだ。

憲法改正問題を機に、日本のあり方が論議され出したのは、誠に喜ばしい。

その論議の中で、日本の国民が慰安婦問題と「第四の権力化」した報道機関の関係や「米露人権制裁合戦」と権力のあり方を巡って徹底的に討論すれば、日本の未来は間違いなく明るいと思わせた「米露人権紛争」であった。

注 : International Council on Human Rights Policyが纏めた「Journalism, media and the challenge of human rights reporting」と言う論文には、「現役のマスコミ人の教育に対するサジェスチョン」も載っていますので、御参照ください。

2013年4月16日
北村隆司