高齢者はどのように働くべきか?

松本 徹三

先回(4月8日付)の記事で、私は「若者はもっと挑戦的に、高齢者はもっと謙虚に」と注文を付けた。それ迄にも、昨年の11月12日付の記事では、「高齢化社会がもたらす問題の克服の為には、要は高齢者がもっと働けばよいだけの事だ」と論じたし、2月4日付の記事では、定年制の延長に絡めて、「高齢者がのさばらず、若い人達に活躍の場を作っていく為の方策」を論じた。今回の記事はその補足に過ぎないが、先ずは私自身のやっている事を若干披露してから、一般論につなげたい。


大学を卒業して仕事を始めてから50年の節目にあたる2012年の3月に至るまでの最後の2-3年間は、私は、「実業の世界(つまり、いつも損得勘定ばかりしていなければならない世界)」から引退した後の、「完全に自由な立場から物事を考えられる世界」に憧れて、その事ばかりを楽しみにしていた。

しかし、その頃、震災後の日本を覆っていた「どうにもならない程の停滞感と閉塞感」を見るにつけても、「このままでは次世代の人達に対して何とも申し訳ない」という気持が強くなり、遂に「今後も5年間は現役世代と同じような気持で働こう」と決意するに至った。

しかしながら、そのような決心に至ったのも、私自身に、たまたま、「こういう事は自分しかやろうとする人もいないだろうし、能力的にもなかなか出来る人はいなさそうだ」と考える対象があったからだと思う。どんな仕事でも、それをやり遂げる「能力」と「意欲(気力)」を併せ持った人がいなければ、とても成功は覚束ない。

「能力」というものは、全ての人が生まれながらにして持っているものではなく、環境と経験によって次第に身について行くものだ。つまり周りから与えて貰ったものなのだ。それなのに、そういった能力をたまたま持っている人が、それを生かす「意欲」を持たないままに日々を安穏に暮らしているとすれば、これはそれまで自分を育ててくれた人達への裏切りでもあり、大げさに言えば、自然の摂理に反する事かもしれない。そうなると、矢張り、自分の中で眠っていた、或いは眠り続けてしまいそうな「意欲(気力)」を掻き立てるしかない。

以前の記事にも書いたように、私の場合は一風変わっていて、他の多くの人達とは「仕事」というものに対する考え方が少し違うように思う。多くの人達にとっては、会社や組織の中で或るポジションが与えられる事によって全てが始まる。だから、そのポジションに求められる仕事を完遂する為の構想をまとめるのが、先ずはやるべき仕事になる。

この人達には、既に相応のポジションが与えられているので、ある程度の人手や金は自由に使えるから、一旦構想が固まれば、その実現に邁進する事はかなり容易だ。そして、一旦その仕事がうまくまわって行けば、組織の上部構造の信頼をかち得る事が出来、次の「より大きな仕事」に挑戦する機会が与えられる。しかし、この事は、一方では、いつまでもポジションが与えられなければ、始めから手も足も出ない事を意味する。

これに対し、私の場合はこれとは逆で、これまでの長いビジネスキャリアーにおいても、「自分が何をやりたいか」がいつも全てに先行していたようだ。

具体的に言えば、「多くの人達がこんな商品(サービス)を求めているのに、何故誰も提供しようとしていないのか?」「こんな良い技術や、実現可能な新しいビジネスモデルがあるのに、何故誰も使おうとしないのか?」という「自分自身に対する問いかけ」が、全ての出発点だったように思う。これは、とどのつまりは、毎日がベンチャー的思考の連続だったということを意味する。

しかし、そういう仕事を完遂するためには、多くの人達から共鳴を得ることが必要だ。それがなければ、協力してくれる人材や必要な資金を得ることは出来ない。だから、先ずは自分自身が確信犯になり、「全力をあげて目的完遂の為に努力する」事をコミットしなければならない。「自分はコミットせず、誰かから資金や労力を得られる」等という事はあり得ない。

長年の間に培ってきた「人脈」というものも、確かに役には立つが、それも自分自身のコミットメントがあってこそ、初めて生かせるというものだ。

コミットするという事はどういう事なのか? 自分の毎日の生活の中でそれを最優先に扱い、いつもその事を考えている事だ。労を惜まず働く、毎日ハラハラ、ドキドキする事を覚悟する、眠れない夜が続くことも覚悟する、どんな人にも気を使い、平身低頭してでも協力を得るように心掛ける、等々も当然の事だ。

(これは、言うのは簡単でも、そんなに易しい事ではない。余程の事がなければ、安穏な生活を送れるチャンスを捨ててまで、こんな事を自ら進んでやる馬鹿はいないだろう。しかし、人間というものは不思議な動物で、私などはまさにこの「変った動物の一種」なのかもしれない。)

高齢者も、このように考えて仕事をすれば、少しは世の中の為になれる。ポジションに恋々とするのではなく、誰もやろうとしない仕事を創り出すのなら、若者の機会を奪う事にもならないだろう(むしろ、若者の為に、彼等の働く場を作る事になる)。組織の中では先輩風を吹かさず、誰にでも辞を低くして理解と協力を求めるようにすれば、特に煙たがられる事もないだろう。

しかし、ここまでの話は、どちらかと言えば、私のような「変わった動物」のの話の一例に過ぎず、一般論には結びつかないかもしれないので、この辺で視点を移したい。

先ず、定年制の延長だが、これは、以前にも書いたように、当然「年功序列の廃止」「第一次定年制の導入」といった、種々の人事制度の抜本的な改革を前提とすべきだ。

「第一次定年」を迎えた高齢者は、仮に同じ会社であっても、出来る限り異なった部署に移るべきだし、新しい所属での上長は、当然自分より若い人であることを受け入れなければならない(これが嫌だというような時代錯誤の人は、年金の削減を受け入れて、ひたす生活費を切り詰めながら余生を送ってもらうしかない)。

しかし、そんな形式的な事よりももっと重要なのは、この人達の「気持の持ち方」と「仕事の内容」だ。彼等は、場合によれば、現役の責任者よりも能力があるかもしれない。現役の責任者がやっていることを見て、危なっかしいと思ったり、「何故俺の意見を聞きに来ないのか」と苛々したりする事もあるだろう。

それ故、当然の事ながら、若い世代と高齢者が混在する組織の全体を統括する上長の責任は、極めて大きなものになる。異なった世代の人達が一堂に会して、忌憚のない意見交換をする場を作るのも大切だし、高齢者の持つ種々の分野での経験を丁寧に評価して、そういった経験をうまく生かしていく事も大切だ。

人には誰にでも「誇り」というものがあり、それがある程度満足させられないと良い仕事は出来ない。これは、高齢者にも若い人達にも等しく言える事だ。

しかし、組織の中で段々と重要なポジションにつき、それを梃子にして「より大仕事をしよう」と野心を燃やす事が出来るのは、先の長い若い人達の特権だ。先の短い高齢者は、これまでに色々な運不運はあったにせよ、今は過去を振り返ることなく、一生を通じての自分自身の「ささやかな誇り」を大切にして、「一隅を照らす」事に心を砕いていくしかない(そうでなければ「老害」になる)。

具体的に言うなら、先の長い本流の仕事は若い人達に任せ、高齢者は、むしろ、人のあまりやりたがらない「傍流の特殊なプロジェクト」を引き受けていくべきだ(商社のOB等を見ていると、人があまり行かない発展途上国等での長年の経験を生かして、みんなから頼られながら、老齢に至る迄良い仕事をしている人達が結構いる)。

その代わり、意欲のある高齢者には、ある程度の権限が与えられ、仕事の進め方も比較的自由に決められるように配慮がされて然るべきだ。傍流の仕事では、人員も資金もあまり動かせないから、こういう仕事を任された人達は「昨日に変わる今日の身の上」と嘆く事もあろうが、「会社を離れて自分一人で起業していたとしたらどうだっただろうか」と考えれば、むしろ感謝の念が湧いてくる筈だ。

新しい世の中では、色々な悲喜劇が生まれることは避けられない。しかし、最も重要なメッセージは、「何時の時代にも『ノンワーキング・リッチ』は許されてはならない」という事だ。膨大な国債の発行残高を抱え、「高齢化」による「税収の伸び悩み」と「社会保障負担の増大」に怯える現在の日本では、残念ながら、60歳代の人達にリラックスして貰える余裕はないと考えるべきだ。