どうも、考えれば考えるほど混乱した感想しか出てこないのが恐縮だが、つらつらと書く。
アニメ『風立ちぬ』の公開時期が、日本の終戦記念日の時期と重なっているのは、僥倖である。商業映画である以上、ジブリは何としても勝たねばならない。幸い、終戦は真夏でないと具合が悪いという感覚は、もう日本人の「第二の自然」と化している以上、旗色は悪くない。透けるような青空と海が武士道的な清らかさを象徴する夏である。そして死者がすぐさま蛆だらけの汚物と化す夏である。『風立ちぬ』は前者を利用し、高畑勲の『火垂るの墓』は後者を利用した。
とはいえ、書店に設けられた『風立ちぬ』の特集コーナー、そしてそれを取り囲むように陳列された零戦の特集号たちは、翼の無い大衆の焼かれる姿など眼中にないと言わんばかりに、骨董品と化したプロペラをモノクロの写真の中でそびやかしている。中には零戦こそ日本の「ものづくり」の原点であるなどと、冗談か本気か分からぬ論調で書いているものもある。
しかしこうした技術礼賛は、実に奇妙な論理的首尾一貫性でもって、宮崎駿自身の内側に浸透しているように思われる。彼は原子爆弾の製造は反対するのだが、戦車を作ることについては首肯する。「だから馬鹿げてるけど、最新式の戦車ぐらいは多少造っておけばいいんですよ。本当はガンダムでも造って行進させりゃいいんじゃないかと思っているんだけれど(笑)」(「熱風」、2013年)そう、彼は「戦争」を嫌悪しながら「戦闘」に惹かれるという矛盾を胚胎してきた人間なのだ。
ウェブ上の週刊朝日でも紹介されているが、宮崎駿は上で引用したジブリの小冊子にて「もう少し早く生まれていたら軍国少年になっていた」と自伝的に回想し、さらにこう述べている。「僕は……志願して、戦場で慌ててすぐに死んでしまうような人間です」。これは単純に、戦争の恐ろしさを嘆いているのではない。間違えないでおこう。このコメントが意味するところは、宮崎駿という人間はどうしようもなく「前線」が好きなのだ、ということに尽きる。彼は単純な反戦論者ではない。漫画『風の谷のナウシカ』では最初から最後まで戦いが途絶えることがないし、人がバタバタと死んでゆく。兵士であろうと一般人であろうと、剣で切り結び、火薬が爆発し、戦闘機の機関銃が火をふき、負けた側が土地を追われて彷徨する。男は殺され、女子供は敵国に売られてゆくのである。
ここでは『風の谷のナウシカ』を詳細に論ずるわけにはいかないし、私にそんな力もないが、くり返し漫画を読みながら残るのは、戦いを描いている時の宮崎駿の筆は何と生き生きしているのだろう、という感慨である。兵士から全面的な信頼が寄せられるクシャナは、戦闘の天才たる源義経であって、遠く安全な場所から陰謀を画策する頼朝ではない。
無論彼は、クシャナ自身がそうであるように、戦争の大義名分など信じてはいない。おそらく宮崎駿にとって、戦争はどんな形であれ勝利しなくてはならない、という国家の当たり前すぎる論理ほど嫌悪すべき対象はないだろう。しかしナウシカが望むと望まざるとに関わらず戦争へと巻きこまれていくのは、彼女自身が自覚している根源的な破壊衝動(アニメ『風の谷のナウシカ』では見事に書きかえられているが、彼女は風の谷を襲ったトルメキアの兵士との一騎打ちにおいて、兵士を殺すことに喜びさえ示している)に促されて、という理由だけではない。つまりナウシカは、決して戦闘マニアではない。そしてまた漫画『風の谷のナウシカ』における戦争も、決して戦闘シーンの単なる集積なのではない。ここではトルメキア対土鬼連合国という国家間の戦争も描かれるが、ナウシカが真に戦う相手は国家であって、国家でないようなものだ。
端的に言わせてもらえれば、やはりそれは「技術」である。この辺りを立ち入って論ずるにはとても手に余る。ナウシカは、(毒と蟲にまみれた恐るべき攻撃的な生態系である)「腐海」はどうやって出来たのか、それを誰か、何のために「作ったのか」という謎にいどむ。そこで彼女は、局地的な戦闘からふみ出て、戦争そのものに入ってゆく。結論だけいうと、今ある人間を滅ぼし、安全で穏やかな新人類を地球に誕生させようとする旧時代の技術という「亡霊」と対峙するのだ。この亡霊は失われた生物改変技術を、まるで神話のように巨大な肉塊に刻み込んでおり、土鬼の聖都シュワの代々の為政者たちはこの肉塊のメッセージを天啓のように受け入れていた、とされる。
『風の谷のナウシカ』において徐々に明らかにされるこの物神、すなわち、戦争のない管理社会を築くために人間の支配欲が利用されるという技術のパラドックスは、隅々まで管理の行き届いた社会では人間は人間性自体を失うのだというジョージ・オーウェルの『1984年』的なアンチ・ユートピアを想起させる。ナウシカは、この元凶である肉塊を滅ぼすために、これまた旧文明を滅ぼした技術の権化ともいうべき巨神兵に目をつける。のみならず、自ら巨神兵の母であると偽り、オーマという名さえ与え、これを操るというリスクをおかす。目には目を、というわけだ。彼女はどんな形であれこの戦争に勝利しなくてならないのだ──おそらく、技術が我々の生活や生命維持にとって必要であるとはいえ、技術が技術以上のものであると僭称することにより喪失される、人間の根源的な「自由」のために。この場合、なりふりかまわず彼女が行動できたのは、無論ナウシカが、例えば王蟲の殻をガンシップのキャノピーに加工できて喜ぶだけの技術者ではなく、民衆の上に立つ為政者として育てられたからに他ならない。実際『風の谷のナウシカ』が書かれた時代が冷戦時代だという事実と照らし合わせるならば、ここでは技術は戦闘のただの添え物ではなく、戦争を促す根源としてテーマ化されていることが伺える。言うまでもなくこの80年代、ソビエトやアメリカでは核技術こそ全面核戦争を防ぐ唯一の技術であるというパラドクシカルな神話がまかり通っていたのである。
おそらく宮崎駿にとって、戦争のイデオロギーを捨てることは容易だったはずだが、もう一つの神話を捨てることは困難を極めて、今日に至っているのではないか。つまりそれは、戦闘において、前線においてこそ人間は技術と和解できる、「人間らしい」技術が見いださせる、否、描かれる、という芸術的感覚である。もっというなら、技術者=表現者としての喜びであり、快楽である(だから「本当はガンダムでも造って行進させりゃいいんじゃないかと思っているんだけれど」というのは、案外彼の本音かもしれない)。これを実にノスタルジックに描いた作品は『紅の豚』だが、ここでは見事に宮崎駿の分裂したテーマ系が際立ってくる。すなわち、ナウシカからアシタカ(『もののけ姫』)に至る、祖国を出て行った政治的カリスマの癒しがたい「怒り」というテーマと、ポルコ・ロッソ(『紅の豚』)から堀越次郎に至る、挫折した有能ないち兵士/技術者の「慰安」というテーマがそれだ。両者の一致点を見いだすことは、難しい。自ら才能を見限った漫画家としてのみ、アニメ化不可能な前者のテーマを存分に描くことができたという点に、彼の真の絶望が存しているようにも思われるのだが。
ちなみに、『風立ちぬ』の主人公のモデルとなった堀越次郎が著書『零戦』で回想しているところでは、彼は戦争末期に朝日新聞に、神風特攻隊を称える記事を書くよう依頼され、次のような文章を寄せたという。
「……敵は富強限りなく、わが生産力には限界あり。われは人智を尽くして凡ゆる打算をなし、人的物的エネルギーの一滴に至るまで有効に戦力化すべき凡ゆる体制を整へ、これを実行つくしたりや、内にこれを実行し、外神風特攻隊あればわれ何ぞ恐れん。……」
彼はこれを「なぜ日本は勝つ望みのない戦争に飛びこみ、なぜ零戦がこんな使われ方をされなければならないのか、……戦争のためとはいえ、ほんとうになすべきことをしていれば、あるいは特攻隊というような非常な手段に訴えなくてもよかったのではないか」という疑問を懐胎しながら書いたという。
しかし堀越次郎の思いとは裏腹に、彼の言葉は不気味に響く。「人的物的エネルギーの一滴に至るまで有効に戦力化すべき凡ゆる体制」──その通りだ。零戦は最初から、戦闘機としての機動性を重視したつくりとなっており、機体の防衛力は極めて低く設定されてあった。そしてまた、機体が経験の浅いパイロットにも容易に扱えるようにシステム化されていたことが、皮肉にも、多くの若者を戦艦への体当たり要員として送り出す結果を招くことになった。したがって、「人的物的エネルギーの一滴に至るまで有効に戦力化すべき凡ゆる体制」という言葉は、堀越自身が追究した技術の理想と、彼自身が巻き込まれていった総動員体制の極北を、ものの見事に言い当てている。宮崎駿はこの堀越の矛盾した言葉をどう読んだのだろうか。はっきりしているのは、『風立ちぬ』にこの矛盾が表現される余地はない、ということである。
兵士が手なずけることのできる技術は、いくら突き詰めてもたかが知れている。メーヴェや飛行艇を描くときの宮崎駿のまなざしは、腐海の蟲の羽の一本一本を描き分ける場合と同様、微細なものへの愛情にあふれている。その「狭き」まなざしは言わば、彼が主体的に選んだ盲目である。どう希望したところで、兵器の本質からいって、兵器は兵士が「ただの人間」であることを許しはしないのだ。同様に、戦闘のスキルをいくら向上させたところで、戦争の本質を暴き出すには至らない。ナウシカの自由は、彼女の行動原理が戦闘に留まらなかった点にある。しかし堀越次郎にとっては、技術者として可能な限り戦闘の要求する個別的な諸条件に応える、ということ以外に行動の余地はなかったはずだ。
そしてすべてが終わった後に、骨董としての芸術の対象、宮崎駿のペンが安心して愛好できる相手としての「飛行機」が残された。彼はこれを例えば「よき」技術として、核のような「悪しき」技術に対置させるという二元論的な立場をとるだろうか。おそらくそれは、ない。とはいえ、彼の道徳的関心(よい/わるい)ではなく、芸術家としての彼の表現衝動──端的に欲望といってもいいだろう──が、描くべき技術に何らかの境界設定を彼自身に促しているように思える。戦車は描く。戦闘も描く。巨神兵も描く。しかし近代戦争の真実、人間の価値がまるごと抹消されるようなスターリングラードの攻防戦や原爆投下は描かない。いや描けない。そのようなものを描いたところで、そこに「快楽」は生じない。そしてこの欲望は、当然ながら必ずしも彼の政治的立場と合致するわけではない。
これだけは断言できそうだ。つまり表現者としての宮崎駿がこれまで生き長らえてきたのは、一部マスコミや左翼的な評論家が信奉するように、彼が反戦論者だからなのではない。『風立ちぬ』でその隠蔽に見事に成功し、作品としては見事に失敗しているように、戦争と戦闘との間で惑い続けるその矛盾にこそ、彼の尽きせぬ魅力が存していると言えるだろう。
入谷 秀一(にゅうや しゅういち)
大阪大学大学院文学研究科
招聘研究員・兼・非常勤講師