みなさんは「遺影」を撮っていますか? 高齢社会になり、寿命がどんどん伸びています。「お一人様」も一般的な言葉になりました。誰でもいずれは死が訪れます。亡くなった後に行われる葬儀には「遺影」が飾られます。いまわの際に「遺影」のことになど、とても気を回すことができない、というのは本人も遺族も同じです。
「遺影」などと言うと縁起でもない、と思われるかもしれません。しかし、お葬式に来ていただいた方々が向き合うのは、まさにみなさん自身の「遺影」です。その「遺影」をいざ探そうとしてもなかったり、あってもピンボケや手ブレしたものだったり、遺族や葬儀屋さんが勝手に選んだご自分の意に沿わないものだったりしたら、ちょっと不安ですよね。「遺影」に選ばれる写真のほとんどは、故人が旅行や結婚式などの行事に参加したときのスナップ写真から切り抜き、修正して拡大したものだそうです。自分の葬儀での最後の印象は、やはり良いものにしておきたい、と思うのが普通の感情ではないでしょうか。
最近では、生前にあらかじめ「遺影」を撮影しておく方も多くなってきました。また、自分の気に入った「遺影」をインターネット上に預けておくサービスなども始まっています。「遺影」自体についても、従来のモノクロからカラーへ、無表情から表情豊かなものへ、また自然で暖かみのある写真へ、と大きく変化しつつあります。
ところで、アップルの創業者スティーブ・ジョブズ氏は、オブジェクト指向の考え方をもった人でした。自伝の最後で彼は「ON/OFF」という意味で、死が全ての記憶を「OFF」にしてしまう怖さを自問しています。私はジョブズ氏のポートレート写真を何度か撮影したことがありますが、そのポートレートが映し出したバックグラウンド、つまり人物の背景に、彼の「生き様」がまざまざと見えてくるような体験をしました。
印刷・出版業界には「角版写真」という言葉があります。一般的には、丸版に対する四角い写真、という意味ですが、背景を白抜きにするなどした「切り抜き」写真に対して「背景も写し込んだ四角い写真」という意味でもあります。私は米国で多くの起業家のポートレートを撮ってきました。ジョブズ氏の姿の背景には、まさに「角版写真」でしか写し込むことのできない「生き様」が表れていたのです。つまり、人物写真でもその背景には、人生や個性といったその人のバックグラウンドが写し出されているのです。
人間は誕生というスタートから死というゴールに向かって生きています。その一人ひとりに、どこで育ってどんなふうに大人になり、どんなことをしてどう死ぬのか、という人生のドラマがあります。「遺影」の多くは背景を切り抜いた「切り抜き写真」であることが多いのですが、もしポートレート写真の背景にもその人の「生き様」が表れているのだとすれば、「遺影」も切り抜きではなく「角版写真」にしたほうが絶対にいい、と写真家の私は思うのです。
2011年3月11日、私たちは東日本大震災という未曾有の大災害を体験しました。巨大な津波がすべてを海の彼方へ運び去り、原発事故による放射能が安住の地を汚染してしまいました。あの大災害から2年半が経ちます。必死の思いで故郷に踏みとどまった人たちも日々の暮らしがあった土地や風景の記憶をたどったり、それをよみがえらせたいと感じたり、気持ちの余裕も少しは出てきたのではないか、と思います。
特に原発事故があった福島県浜通には、放射能汚染に立ち向かいながらその地に住み続ける、という強い「覚悟」をもって生きる人たちが多くいます。故郷を失うような危機に瀕しても、自分の生まれ故郷で一生を遂げたい、と願う彼らの姿には本当に心を打たれます。
故人の最期のセレモニーである葬儀を飾るのが「遺影」であるなら、この世に生まれ落ち、いいことも悪いこともあったにせよ、その人生をまっとうすることができた「感謝」を語るその人の肖像画でもあるのです。私は写真家です。福島という土地で人生をまっとうしようとする人たちのポートレートも撮っています。そんな彼らの写真の背景には、彼ら自身の「覚悟」も写し込まれているのです。
もちろん、福島の人たちの「遺影」を撮ることが目的ではありません。私がやるべきことは、背景を写し込んだ「角版」として「生き様」を写真に収めることであり、その土地の空気や季節や色や風といった想い出とともに、彼らの「覚悟」や人生観を未来へ残すことなのではないか、と考えています。そうした写真は、ひょっとすると「遺影」になるかもしれないのです。写真は未来を写し出すことはできません。しかし、未来を照らし出すような美しい想い出を残すことはできるのです。
小平 尚典(こひら なおのり)
写真家
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これまで撮りためた「遺影角版」の写真展を、2014年3月11日に福島で開催予定。その後、英国ウェールズ、香港大学、米国シリコンバレーなどで順次開催します。