「半沢直樹」から見える(らしい)ニッポン・エリートの現実

矢澤 豊

昨日の朝がた、次のようなアゴラのキーメンバーのTwitter上での発言が、FacebookのTimelineの俎上にのっかっていて、いろいろなコメントを読みながら、笑わさせていただきました。

正直申しあげて、はばかりながら藤沢氏と似たような経歴(私の場合は日本の大学中退)の私も、同じような感想を抱いたかもしれません。しかし去年5月に帰国して以来、テレビのない生活をしているので、「半沢直樹」というテレビ番組自体を観ていないのでなんともいえませんが。

しかしこうした「エリート層」の有名無実/形骸化を制度化するというのは、日本史上「平和な社会を築くため」といいますか、「悪平等の下における停滞という社会的予定調和を生み出す」目的のためにくり返しとられてきたニッポンというムラ社会の常套手段だということも真実でしょう。

「源氏物語」の世界をみればわかる通り、平安時代の貴族の「勢力争い」などというのは、「歌詠み」の詩作と、「夜のイトナミ」のアレと、「除目」と呼ばれた人事上のいざこざばかり。いざという際の危機管理が「加持祈祷」だったのですから、バカバカしいというもおろかです。

江戸300年の泰平の制度づくりも似たようなもので、ついこの間の戦国時代までは「一番槍ぃ~っ!」だとか「御首級頂戴っ!」などとやたらと血なまぐさい戦闘に明け暮れていたサムライどもが、「黒書院溜詰格」だの「芙蓉の間詰奏者番」だのと、江戸城内でどこに座れるかなどということに必死になっていたのだから笑わせます。

なお、江戸時代の旗本の就活(「御番入」のための「出勤」「逢対」)がいかにバカバカしかったかということを知りたければ、勝海舟の父親、勝小吉の若い時分の話が秀逸です。

こんなわけですから、戦後の混乱と高度成長経済の喧噪が収まってきた頃合いに、高度に制度化された「エリート(優秀人材)飼殺し社会」が出現してきたことは、ある意味において「お約束」な展開だったともいえます。

しかし、もう何度となく言われてきたことですが、「明治維新」という時代の「うねり」の原動力が、薩摩、長州、土佐といった外様大名国の最下層の武士階級、つまりは当時の「エリート社会」の外を中心としていたという歴史上の真実は、今一度思い起こしていただいてもいいかもしれません。

なお、卑近な話で恐縮ですが、私儀、日本の「エリート社会」と縁遠い経歴が長いため、エリート様相手の職業上の日本語会話といいますか、あの責任の所在をアヤフヤにする語法に隔靴掻痒の思いをしております。そこで不本意ながらヤクザ言葉を多用しています。

たとえば、交渉直前の準備会議で、

「この点に関しましては、弊社の今回の案件交渉に当たっての基本姿勢ということで...」

などとはぐらかされてしまうので、

「下品な表現で失礼ですが、このご提案の『ケツモチ』はどなたですか?」

というと、理解が深まるようです。

また、

「以後、同様の事由が再発しないよう、先方には厳重な申し入れを...」

などと指示された場合、

「趣味の悪い言い方で恐縮ですが、要するに『ヤキ』をいれろ、ということですね。『一度吐いたツバは飲めぬ』とも申しますが、誰が吐いたツバだったかぐらいは明確にしておきましょう...」

などと切り返すと効果的です。

もっとも、自分で言うのも口はばったいですが、私もれっきとしたカタギの生まれ。それがあちらこちらであらぬ誤解を生んでいるようですので、注意した方がいいようです。

追記

これは塩野七生さんの話だったかどうだったか、確かなことは忘れましたが、古代ローマ史に詳しい先生に、日本の企業の管理職の方が、

「私なんかが古代ローマに生きていたら、どれくらいの身分なんですかね。やっぱりセンチュリオン(百人隊長)ぐらいですか?」

と聞いたところ、言下に

「奴隷です。」

と言われたとか。