日本は韓国レベルの「人治国家」では? 山本判事の発言を聞いて

北村 隆司

対馬の仏像窃盗事件、新日鉄住金や三菱重工への賠償支払命令判決など、我々には理不尽としか思えない判決が相次ぐ韓国を「法の支配が及ぶ国家」とは呼べないと感じた日本人は多いと思う。

私もその一人で、今の韓国が変わるまで相手にしないほうが良いと考え“対韓外交は、「無為」「無策」「無関心」の「三無」に限る”と言う記事を投稿した。

ところが、元法制局長官の山本新最高裁判事が「憲法解釈の見直しによる集団的自衛権の行使容認は難しい」と発言した事を聞き、韓国ほど酷くはないが、日本も「人治国」では?と言う疑問が湧いて来た。

私の拙稿「憲法(3)最高裁判事:資格より「出身枠」の重視はおかしい!」でも触れたが、 最高裁判事に司法資格を求めない日本では、司法資格を持たない行政官出身者が多数判事に就任して来た。


佐藤優氏はこの事を「運転免許証を持たない自動車教習所の教官が運転を教え、医師免許を持たない医者が手術をするのと同じで、死刑判決など人間の命を扱う事もある最高裁判事が司法資格を問われないのはおかしい」と解り易く説明している。

「立憲民主国家」では最高裁という制度への深い敬意を持たない判事はいないのが常識だが、今回の山本発言は最高裁制度への侮辱であり集団的自衛権の賛否を超えた質の悪さが問題である。

この下品な発言の背景には、例えは悪いが、内閣と「同棲生活の長い妾(内閣法制局)」がのさばり、憲法上の終審裁判所である「正妻(最高裁)」が「妾(内閣法制局)」のご機嫌を伺って憲法判断を避けて来た事がある。

これを「人治国家」と呼ばなければ、何を指して「人治国家」と呼ぶのか?

現憲法はこれら度重なる運営上の失敗に加え、下級法が憲法の精神を骨抜きにする「下克上法体系」と言う構造上の欠陥を抱えている。

最高裁判事の任命方式もその例外ではない。

憲法第十四条は「すべて国民は、社会的身分その他如何なる理由でも政治的、経済的又は社会的に差別されない」と規定し、第十五条2 項では「公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」と定めている。

然し、下級法の裁判所法の第41条 は、司法資格を必要とする職域から最低10名、その他の「識見の高い、法律の素養のある年齢四十年以上の者」から5名を限度として任命できると言う、「職域別経験」優先の規定を定め、最高裁を実質的な職域代表制度に改変して仕舞った。

「識見の高い、法律の素養のある年齢四十年以上の者」と言う枠で任命された判事が全て行政官である事から判断すると、日本では戦後70年近い間「識見の高い、法律の素養のある年齢四十年以上の者」は行政官以外には見つからなかったという事になる。

ついでに申し上げると、「年齢四十年以上」でなければ判事に適格でない理由の説明も一切ない。
その結果、裁判官出身6人、弁護士出身4人、検察官出身2人、行政官出身2人、大学教授出身1人という職域別の割り当てが「慣例」として定着する事になった。

これは「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定した憲法にも反する。

明治大学の西川教授の著述によると、これ等職種は更に各職種の派閥別に分類され、その系列の割り当ては綿々と続いていると言う。これに出身地方別派閥が加われば、立派な韓国である。

かくして日本の最高裁は「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言うビスマルクの故事どおり、「俺は正しい」とうぬぼれた「派閥の愚者の集まり」に身を落としてしまった。

今回の騒動を起こした山本判事も元はと言えば、財務、法務、総務、通産でたらい回しにして来た法制局長官職に通産枠(現経産省)で就任した、司法資格を持たない「識見の高い、法律の素養のある」筈であった人物だ。

ところが今回、たらい回し人事の慣例を破って外務省から「集団的自衛権」に理解を示す小松氏が法制局長官に任命されると、過去の長官経験者がメディアに再三登場し解釈変更反対論を展開していると言う。この山本発言が、古巣に向かっての「心配は要りません」と言うシグナルだとしたら懲戒物である。

こうして、山本判事を強く批判するのは、私が改憲論者だからではない。

私は「山本判事の発言は反政府的だ。元役人がこんな事を言うべきでない」と発言した改憲派で元役人の佐々惇行氏も、山本発言を「実に適切な発言」等と歓迎した護憲派のいずれも政治と法の支配を混同した愚論だと思っており、官房長官が「司法による行政の介入で非常に違和感を持つ」と批判しながら「任命責任者」の安倍総理の責任を追求しない事は、更に滑稽だとすら思っている。

最高裁判事に限って司法資格を求めない国には米国もあるが、憲法を国のあり方と理念を定めた最高の章典と考える米国は、法律実務に詳しい事は充分条件に過ぎず、憲法の理念、価値観に忠実な考えの持ち主である事が必須条件とされ、最高裁判事に指名された人物の個人的理念や価値観に関する上院審査の厳しさは尋常ではない。

又、裁判官が特定案件の審理に当たり、独立性や中立性を脅かす恐れが有ると判断した場合は、当該判事が審理を辞退する「自己回避」をするのが法治国の通例だが、日本ではその例が見当たらない。

中でも、判事の中立・公正を重視する米国では、自己回避の事例は多い。

最高裁判事に任命されるまで、法廷で連邦政府の代理人として訴訟遂行にあたる訴務長官の職にあったケーガン現判事は、就任当初の最高裁で審議入りの決まった51案件の中で25案件で自ら審理参加を辞退している位で、山本判事の驕りぶりとは対照的だ。

自己回避の極端な例としては、2008年の上告審でロバーツ長官以下4人が自己回避を申し出た為、定数不足で審理そのものが成立せず、憲法の規定に従い「巡回高等裁判所の決定」が最終となったIsuzu Motors, Inc., v. Ntsebezaのケースがある。

この案件は、米国領以外で起きた人権侵害行為に対して、外国人が米国の法廷で訴える事を認めたAlien Tort Claims Actと言う法律を根拠に起こされた集団訴訟案件で、事が人権問題に及ぶと「国内法」や「国際条約」の制限を超えて人権を優先する最近の国際思想の傾向が底流に見え隠れする、理論的にも法技術的にも素人の私にはとても歯がたたない難しい論議がされている。

ひょっとすると,新日鉄住友金属や三菱重工の賠償請求事件が国際論議になった時に、この案件の論議が影響する可能性も有り、専門家の真剣な検証を是非お願いしたい。

「憲法第九条死守」を掲げて憲法改正に反対している革新派は、水俣病、ハンセン氏病、原爆被害者認定、血友病問題は勿論、多くの弱者救済行政訴訟で門前払いを食わせた現憲法と最高裁を其の侭にして良いと言う意見なのだろうか?

日本憲法の全体を俯瞰して見ると、党派的対立以前に重大な不全を起こしている事は明白で、改正は喫緊の課題であるが、今の対立が続く限り改憲は当分困難であろう。

然し日本を名実ともに「法が支配する国」に変えるには、憲法を改正しなくとも山本判事の様な粗悪判事が二度と誕生しない様に、最高裁判事の任命過程を国民が厳しく監視することから始めるべきである。
それでもしないと、日本は益々韓国に似た「利権と縁故」が支配する腐敗した「人治国家」に没落するのみである。

2013年8月25日
北村隆司