先生は足りないのか、余っているのか?

松本 徹三

こんな表題を書くと、「足りないに決まっているじゃあないか」とすぐさまお叱りの言葉が飛んできそうな気がするが、敢えて問いかけてみたい。企業では、現場は常に「足りない」と言い、トップや財務部は常に「もっと減らせる筈」と言っているからだ。要するに、どんな仕事であっても、「無駄な事をやっていないか?」「本当にやるべき仕事がやれていないのではないか?」という事が、常に問いかけられて然るべきだ。


そもそも、競争環境の中にいる各企業の現場は、どんな時でも「現状の問題点」に目を光らせ、「改善」や「抜本的な改革」を心がけている。しかし、国の決めた方針が金科玉条になっている教育現場では、そういうインセンティブはなく、また自由度も制限されているのではないだろうか。それならば、あらゆる可能性を国ぐるみで追求していくしか道はない。

デジタル教科書の議論の中で、辻さんから「デジタル教科書を導入する金があるのなら、もっと先生の数を増やす事に使え」というご意見を頂いた。「一人の先生が35人以上もの生徒を受け持っている現実は狂気の沙汰」というお考えがそのベースにあるのだろう。私もこの点には異議はない。しかし、「機材を入れれば問題が解決する」という考えが安易に過ぎるように、「先生の数を増やせば問題が解決する」という考えも安易に過ぎる。両方とも、「どのような先生がどのような授業をやれば、教育の実が上げられるか」という事から考えねば、まともな議論にならないという点では同じ事だ。

私が「デジタル教科書の導入は急がなければならない」と考えている理由の一つには、「これで先生方の負担を減らし、浮いてきた時間で一人一人の生徒と直に向き合う時間を増やす」という事もあるのだが、率直に言って、教育現場を実際に経験もしていない私には、まともに具体論を展開するのは無理だ。私に出来るのは「問題提起」までであり、具体的な問題については、「朝から晩までその事だけを考え抜いている何千人もの人たち」が、大いに議論をし、数々の実証実験を繰り返して、結論を出してほしい。その為に文部科学省があり、数々の委員会や審議会があり、全国に数多くの教育大学があり、殆どの総合大学に教育学部があるのだと、私は理解している。

しかし、確実な事として一つ言えるのは、現在の先生方の負担の大きな部分が、「家庭が崩壊している一部の問題生徒への対応」とか、「未払い給食費の支払の督促」とか、「所謂モンスターペアレントへの種々の気遣い」とかに費やされているという事である。こんな現実を見ている人たちにすれば、北欧の例として「反転授業が成果を上げている」とか「学校と両親との交信は全て電子的な手段による」とか言われても、全く非現実的な絵空事としか聞こえないだろう。

確かに、この事を突き詰めていけば、「公共教育は『落ちこぼれ対策』と割り切り、少しでも経済的に余裕のある人は、子供たちをそれぞれに『特徴のある私学』に通わせるべき。国の文教予算は『経済的な余裕のない家庭の子供たちでも、能力と熱意があれば、希望する私学に行けるようにする奨学金』に使えば良い」という極論に行き着くかもしれない。自らの評判を保ちたい私学なら、モンスターペアレントの類いは平然と排除するだろうからだ。

このような根源的な問題の議論は、とても現在の私の手におえるものではないので、別の場に譲らせて頂くしかない。しかし、行きがかり上、教育に関する幾つかの本質な問題については、私としても、矢張りこの場で議論しておきたい。

第一は、「教室は先生方の知識を生徒に伝授する場ではなく、『電子的な手段によって提供される知識』を、生徒が正しく身に付けていくのを手助けする場であるべき」という事である。これも大変な仕事であるには違いはないが、「全ての知識を自分で直接生徒たちに伝授し、全ての生徒がそれぞれに確実にそれを理解したかどうかを確かめる」という事に比べれば、先生方の負担は比較的小さくて済む筈だ。「小学校での英語教育」などはその典型であり、先生方の機能(負担)は「規律の維持」のみに留めるべきだ。

現実に、これからの世の中では、人はその知識の大部分を電子的な手段(主としてネット)によって入手する事になるだろう(「知識や情報の入手をネットに頼る事がそもそもの間違い」と言う人も中にはいるだろうが、それでは通常の社会生活を送る事さえもが困難になるだろう)。従って、ネットにあふれる不十分或いは不正確な、または歪められた情報によって自らの判断が誤る事がないようにする事が、当然の事ながら、多くの人たちにとって極めて重要になる。

言い換えれば、「ネットの抱える問題点を回避しつつ、ネットを効率的に利用する方法(リテラシー)」を身につける事こそが、これからは、多くの人たちにとって最も重要な能力になるのだ。

昔なら、色々な伝手を頼って色々な人を訪ね歩き、図書館に日参しなければ得られなかったような知識が、今はネット上に山のようにあるサイトを覗いていくだけで得られる。これがあまりに容易なので、「多くの人たちはその内容をコピペするだけで事足れりとし、自ら考えなくなる」という事を指摘する人は多いが、こういう姿勢に陥ってしまう人は、将来のネット社会では自動的に「落伍者」と見做されてしまうわけだから、有能な人たちは「自分の頭で考えて、情報の質を見分ける検証能力」の涵養に、自ずと励む事になるだろう。

しかし、このような能力は、大学のような高等教育の場で涵養させるべきものであり、初等や中等の教育にこれを求めるのは勿論無理だ。従って、初等、中等教育においては、教育する側が、生徒たちがアクセスするサイトをあらかじめ整備、或いは検証し、それ以外のサイトへのアクセスは出来ないようにしておくべきだ(そうでなければ、「生徒たちがサイトで見つけた情報の真偽や論理の妥当性を、見定めなければならない現場の先生方の負担」が重くなりすぎる)。

次に、初等教育で最も重要なのは、「子供たちに最低限の規律を身につけさす」のもさることながら、「子供たちに自由に発想させ、自分が何に興味があるかを見つけさせる」事だという議論をしたい。

これは米国では当然の事として認知されている(北村隆司さんの話)と前回の記事に書いたが、日本でその為の努力がなされているという事例はあまり聞かない。前者と後者は一部相矛盾する所もあるので、その兼ね合いは難しいが、これは子供たち全体の「社会への適合力」のレベルを上げ、「幸福度」を増すだけでなく、将来の国力を向上させる「有為の人材」を育成する為にも必須であると思う。

そして、私が最も強調したいのは、この為には「ネットの力を借りる事」、即ち「教育のデジタル化」は必須であるという事だ。如何に有能な先生方が、如何に努力しようとも、子供たちの多種多様な興味を満足させる事はとても出来ない。現在のままだと、子供たちの「知識と能力」は、結局は担任の先生方の「知識と能力」、及び「個々の先生の興味」の範囲内に留まらざるを得ない事になってしまう。

スポーツや芸術関係では、民間のエリート養成機関が数多くあるが、自然科学や社会科学、人文科学の分野ではそういうものは存在しない。持って生まれた自分の「能力」や「興味の深さ」に気付かせ、その興味を刺激するのに最も有効なのは、画像や映像を満載したネット上のサイトであり、それを子供たちの理解可能なレベルに落として整備し、そこで得た知識を子供たちが自ら発表出来るような機会を与える事が必要だ。初等教育でこれが出来ていれば、中等教育を或る程度「進路別」に色分けする事も可能になり、高等教育でそれを花開かせる事も可能になるだろう。

尤も、この事を更に論じていけば、教育の議論の時に必ず出てくる「学力」というものの定義も、もう少し掘り下げていく必要が生じるだろう。「学力」というものを狭く定義した上で、それを「至上のもの」と考えれば、型にはまった若者しか生み出せない教育になってしまい、その枠外の若者たちを落ちこぼれにしてしまう。こういう社会は効率的でもないし、公正とも言えない。

「先生は足りないのか余っているのか」という表題をつけながら、最後はまた「教育のデジタル化」の必要性についての自説の開陳になってしまったが、この事は何度論じても論じ過ぎる事はないと思っているので、どうか大目に見て頂きたい。「先生の数」について言うなら、「どうしたら、現在の先生の数をあまり増やさないで、現在よりもっと上質の教育が出来るか」という議論こそが必要だと私は思っている。延々とWhetherを議論するのはもうやめて、Howこそを議論すべきだ。