最近はよく知られるようになったが、海軍だけでなく陸軍も日米戦争に勝てないことは知っていた。それなのに満州事変などで既成事実を積み上げて「空気」を作り出した主犯は陸軍だが、近衛文麿などの政治家はそれに抵抗できず、日中戦争以降はむしろ軍より強硬になった。そういう「空気」を増殖させた共犯は新聞である。朝日新聞は
[満州事変の始まった]昭和6年以前と以後の朝日新聞には木に竹をついだような矛盾を感じるであろうが、柳条溝の爆発で一挙に準戦時状態に入るとともに、新聞社はすべて沈黙を余儀なくされた。(『朝日新聞70年史』)
と書いているが、これは嘘である。陸軍が記事差止事項を新聞社に配布して本格的な検閲を開始したのは1937年で、それまでは新聞紙法はあったが、その運用は警察の裁量にまかされており、発禁処分はほとんどなかった。なぜなら、ほとんどの新聞が自発的に軍国主義に走ったからだ。
その理由は検閲ではなく、商売だった。日露戦争のとき、戦争をあおって日比谷焼打事件を起こした大阪朝日と東京朝日の部数は合計18.5万部から50万部に、大阪毎日は9.2万部から27万部に激増した。他方、非戦論をとなえた『万朝報』は10万部から8万部に落ち、片山潜や幸徳秋水などを追放して軍国主義に転向してから25万部に増えた。
これが「戦争をあおればあおるほど売れる」という成功体験になり、満州事変のあと新聞は従軍記者の勇ましい記事で埋め尽くされた。最後まで抵抗した大阪朝日も、在郷軍人会の不買運動に屈して軍国主義に転向した。このあと軍部を批判する新聞記者は信濃毎日新聞の桐生悠々ひとりになったが、ここでも不買運動が起きて桐生は1933年に辞職し、非戦論をとなえる記者はゼロになった。
しかし軍部もアメリカに勝てないことは知っていたのに、新聞記者が何も知らなかったはずはない。朝日新聞でもむのたけじは、戦争責任をとって終戦直後に辞職した。しかし(ドイツと違って)日本の新聞社は占領軍に解体されず、かつて戦争の旗を振った朝日新聞が、最近は「原発ゼロ」や「解雇特区」つぶしの旗を振っている。これも商売のためと考えれば、それなりに一貫してはいる。
なぜ新聞が日本を戦争に引きずり込んだのかという本書の問題提起はいいが、対談はこの疑問に答えないで現代に飛び、橋下問題などを論評して中途半端に終わる。おまけに匿名の編集者が割り込んで「近ごろの若者は勉強が足らん」などと話を拡散させている。軍部や政治家の中で誰がミスリードしたかという分析はかなり進んでいるが、ジャーナリズムについてはまだ不十分だ。今後の研究に期待したい。