少し前に在特会の新大久保でのヘイトスピーチが話題になりました。各種メディアを通じて色々な記事が投稿されましたが、概ねどれも「ヘイトスピーチは駄目、人権侵害、規制すべき」などという論調だったように思えます。僕もやっぱりヘイトスピーチはよろしくないことだと思うのですが、それだけで終わってはいけないような気もしています。 私は3歳から5歳くらいまでイタリアに住んでいたのですが、「日本人」という理由で幼稚園でまぁ虐められました。私自身の性格にも多少は原因があったのでしょうが、入園当初からイジメが発生したのでおそらく9割くらいは日本人だからという理由でしょう。自動車の形をした三輪車が好きでよく乗っていたのですが、それに乗っているのが見つかると必ず囲まれてぼこぼこにされました。当時日本車が世界を席巻していた時期で、フィアット関係者が日本を忌み嫌っていたこともあったのでしょう。
言葉も満足にしゃべれなかったこともあり、先生もイタリア人の肩ばかり持つので、とりあえず先生にも周りの生徒にも、物理的にも比喩的にも噛み付きまくってました 。 んでもって5歳頃に日本に帰って幼稚園に入ったときに、たまたま同じ幼稚園にアングロ・サクソンの生徒がいたのですが、今度は「あの時の復讐」とばかりに毎日その彼にケンカを売りました。ごめんなさい。。。そのうち何となく仲良くなりましたが。この辺の経験は成長過程でかなり昇華したのですが、それでも僕の中で結構根深く残ってまして、今でも何となく西欧人に対してはどうしても付き合いに一線を惹いてしまうところあります。
んでもって何となく思うのは「社会に余裕が亡くなると、内に固まって外に対して攻撃的になるのだな」ということです。なんとなく僕がいじめられていた当時のイタリアと、サムスン・現代自動車などに攻め込まれる日本の構図はかぶるところがあるので、ヘイトスピーチが良いことではないということは多分本人達も分かっているのでしょうがどこかに不満をぶつけなければやりきれないのでしょう。日本という国は会社・業界ごとにムラ化していて、一度リストラにでもあったりしたらなかなかそこから這い上がるのは難しい社会で、そのくせ辺に自己責任論・「頑張りが足らないからお前は駄目なんだ」という根性論が横行しているので、特に都会ではブラック企業に行ってこき使われるような運命を享受しなければいけないようなことになり、その辺の社会に対する絶望が逆恨みにつながりヘイトスピーチという形で表面化しているように思えます。
なので、ヘイトスピーチの問題は「人権侵害だ、規制だ」などと言ったところでおそらくおさまらず、この閉塞化して再チャレンジが困難な社会のダイナミズムを回復することでしか解決しないように思えます。同質なもので固まり異質なものから身を守るというのは社会の根本なので、同質性の基準を民族に置いている限りはヘイトスピーチは収まらないんじゃなかろうかと。民族を越えた「理念の共有」に日本社会の同質性を見いだして、社会制度もそれに対応して変革していけばよいのですがね。
ではでは今回はこの辺で。
編集部より:このブログは「うさみのりやのブログ」2013年11月5日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はうさみのりやのブログをご覧ください。