澤田哲生
東京工業大学助教
(GEPR編集部より)
アゴラ研究所は「第2回アゴラ・シンポジウム 「持続可能なエネルギー戦略を考える」を12月8日午後1時から東京工業大大岡山キャンパスで開催します。(告知ページ)出席者の澤田哲生さんの論考を紹介します。
(以下本文)
福島浜通り地区の人々の声
1ミリシーベルトの壁に最も苦悩しているのは、いま福島の浜通りの故郷から避難している人々だ。帰りたくても帰れない。もちろん、川内村や広野町のように帰還が実現した地域の皆さんもいる。
しかし、帰還者が語る事実は重い。「除染後は一時的に線量が少し下がっていたけれど、そのうちほとんど元通りになってしまった。」汚染された落葉や土が風や水で移動し、セシウムが戻ってくるのである。その苦悩を直に聴いて、私に一体何が出来るだろうかと考えた。
しかし、これといったまともな処方箋さえもなかなか思いつかない。せいぜいが、政治や行政の現場に彼らの苦悩を伝え、『なんとかならないでしょうか?』と訴えかけるくらいしかない。
除染に関わる特措法がある。年間被ばく線量が20ミリシーベルトでも帰還出来るが〝長期には1ミリシーベルトを目指す〟という文言が事実上の重い足枷になっている。この足枷をなんとか、早く外さなければ福島の復旧・復興どころではない。
ウクライナに2年後にできた都市
9月下旬に、福島県双葉郡からいわき市などに避難している地元の青年20名程の後を追って、ウクライナを訪問した。チェルノブイリ原発等の視察だ。青年達をまとめているのは、地元の街づくりNPOの西本由美子さんである。
青年達からは、〝オババ〟と呼び慕われている。西本さんは、今年の8月下旬に被災3県を中心に全国から50人程の高校生を集めて、仙台で高校生による復興サミットを開催し大成功のうちに終了させた。とてもパワフルで笑顔の絶えないオババなのである。
9月のウクライナ訪問のハイライトのひとつは、かつて原発作業者の街だったプリピャチと事故後に造られた新都市スラブチッチの訪問だった。廃墟となったプリピャチには、原発事故直前に完成した観覧車が一度も使われることなく,27年の歳月のなかで錆だらけになっていた。
一方、スラブチッチは集合住宅や戸建が整然と見事に配された理想的と思える街だった。とてもあのソ連時代に造られたとは信じられない様であった。二つの街の対照性に沈鬱な気分になった。双葉地域はいまどっちに向うかの瀬戸際に思えた。スラブチッチは事故からわずか2年で、国家の威信をかけて造られたという。おとぎの街、夢の街ともいわれている。
キエフの放射線医療の研究所で、専門の医師から事故後における住民の被ばく線量と疾病との関係について説明を受けた。双葉の若者が質問に立って、自分の知人が10ミリシーベルトほど外部被ばくして非常に心配しているがどう考えればいいかと訊ねた。
一瞬間があって、内部被ばくか?と医師が聞き返した。否、外部被ばく。それを受けて医師は言った。私たちが問題にしているのは年間内部被ばくで300ミリシーベルトだ。それを超えると各種の疾病が現れ始める傾向が見られている。10ミリシーベルトは桁違いに低く、しかも外部被ばくなのでまったく問題ではないと。きっぱりと言い切ったのである。
「ツーリズム」の地にする必要はない
双葉とプリピャチには大きな違いがある。プリピャチにはこれまで27年間人々は帰還していない。その代替えに新都市スラブチッチが建設されたという名目があるので、今後も人々が戻ることはないだろう。一方、双葉地域から避難している人々には元々住んでいた場所に帰還し、そこで新たな街づくりを始めることを切望する人達が沢山いることだ。政治と行政が的確に判断し行動すれば、今すぐにでも始められる。
とある言論空間の言説を知って驚いた。メディアと合作して、双葉地域をチェルノブイリに倣ってダークツーリズムの場とする意図が見え隠れしているのだ。言論空間による情報汚染の萌芽である。これは、大きな間違いである。
双葉地域をダークツーリズムに売り渡してはならない。双葉の人々は決してそんなことを望んでいない。あくまでも未来を見て、新たな街づくりにむけた早期の出発を望んでいるのである。
未来の街には、避難から戻った人々だけではなく、新しくその土地を目指してくる若者が欲しい。そのために、福島県といっても会津や中通りにはあって、浜通りないものがある。それは、高等研究施設や大学などである。
除染はいくらやっても際限なく最初から繰り返さなければならない〝シーシュポスの岩〟の寓話に似ている。10月下旬に双葉地域を訪れた私は、除染された土嚢の山を目の当たりにした。黒く無愛想な大きな包みが、民家の庭先に無愛想に野積みされている。除染土を寄せ集めてあっちからこっちに移動させただけである。そこから動かせない現実に、私は惨憺たる思いに沈んでいった。
除染につぎ込まれる莫大なコストのほんの一部でもあれば、あらたな街づくりが始められる。年間5ミリシーベルトといわず、10ミリシーベルト、20ミリシーベルトでも今すぐ戻りたいという少なからぬ若者の意を政治は汲み取るべきではないか。
除染見直しから、復興がはじまる
西本さんがリーダシップをとるさくらタウン構想では、浜通りを縦貫する桜並木の実現のため、こつこつと植樹を行っている。今夏、東京の高校生約200名が植樹に参加した。そこに取材に来た記者が、高校生に「放射能が怖くないですか?」と聞いた。高校生は「学校でちゃんと学習してきましたから、全然怖くありません」ときっぱり応えた。科学的な基礎知識をきっちりと学習し、実践的な体験を積むことの重要性をこの生徒は語っている。
地元から避難している青年のみならず、被災地の高校生のみならず、首都圏の高校生も未来を目指して、災害を乗り越えて、自分たちの地域、自分たちの国家を前に進めて行こうという意気込みが感じられる。しかし、それを阻んでいるのが除染の壁であり、その状況に甘んじる政治であり政策である。この現実とは一体なんなのであろうか?
そもそも明治時代の中期までは、浜通りは磐前県(いわさきけん)という独立した県であった。中通りおよび会津と合併し以降、鉱業基地や原子力発電基地にはなったが、それは首都圏からすればあくまで利用するための基地であった。地域の人々が本来あるべき自らの豊かさを自らの目線と努力で築いていける地域づくりに国家はどこまで意をつくしてきたのであろうか。
復興予算は津波被害にも遭っていない郡山や会津にながれて、かの地には立派な研究施設などが出来つつある。それをよそ目に、浜通りはいまだその復旧さえもままならないという嘆きの声が地元の若者から聞こえてくる。
いま政治と行政がなすべきは、帰還を加速し双葉地域を行政特区にすることではないか。そうすれば地域の叡智と現場力がきっと活かされ、新たな街づくりに結実するはずだ。
政治と行政が少しく双葉地域の地元の人々の心に寄り添えば、日本の歴史に残るような街づくり、地域づくりが始まって行くのではないだろうか。
それは単に双葉地域のみならず、日本という国家にとっても得難い僥倖になると思うのだが。
禍転じて福となす。今、その時である。