先日、報道で秋葉原あたりに「JK(=女子高生)お散歩」なる女子高生ないし、それに扮した女性が顧客の男性と散歩するビジネスが出来た(既に警察は摘発をしているようですが)と紹介されていました。始めて耳にしたときばかばかしいと思ったのですが、何故、これがビジネスになるのか、と考えたとき、寂しい思いをしている顧客が増えたという社会そのものにむしろ、怖いものを感じました。
無料メールアプリのLINEの最大の特徴の一つに相手に送ったメッセージが開かれると「既読」となり、送信側で分かる点でしょうか? 案外気がつかないで使っている人もいるかもしれませんが、送ったメッセージを相手が読むとその印がメッセージの横に出ているのです。相手のメールを読んでも無視して返信をしないとKM(既読無視)といわれ、相手は機嫌を損ねるらしいのですが、そこに求めるのは繋がっていたい、あるいは、無視されたくないという気持ちの表れなのでしょうか?
当地のローカル新聞の特集の一面に柏の団地に住むお年寄りにスポットを当てた2ページに渡る特集がでていました。これはインパクトがありました。その趣旨とは会社人間として過ごした男性はその生きる世界をほぼ会社の中で過ごしたため、リタイア後に居住地のコミュニティに溶け込めず、一人の寂しい老後を過ごす人が多いとあります。
私が4、5年前、東京で高齢者向け住宅のフィージビリティスタディを行った際、多くの高齢者向け施設のお年寄りが「単独行動」をしていたことに驚きを隠せませんでした。朝の散歩も日中過ごす時間も割と一人が多い、というのは高齢者向け施設内のコミュニティに溶け込めない日本人のシャイさがむしろ、心を開けない状態を作っているように思えました。
ツィッターやフェイスブックはコンピューターディバイスを介在したものであり、画面上の言葉を通じた繋がりながらも人々はいかに多くの友達を持ち、自分が多くの人に取り囲まれているかを気にしているようです。それは結局、ネットを通じたコミュニケーションが新たなる人と人のつながりを作り上げているのかもしれません。
人はITに毒されるのか、ITを有効に活用するか、この違いをどうやって感じていくのか、その端境期にあるのかもしれません。考えてみればコンピューターが世の中に出始めたのはウィンドウズ95あたりでその後の急速なITの発展に人々はついていくというスタンスを続けてきました。新しいソフトや技術が出れば人は殺到し、いかにそれを人より早く自分の身に着けるのか、先を争うようにしていました。マイクロソフトやアップル社が新製品を売り出すたびに徹夜で並んでいたシーンは売り方が変わったこともありますが、やや、沈静化した気もします。
多くの人は少しずつ気がつき始めているのかもしれません、技術との共生を。
当地の新聞に出ていた柏の団地の記事の中にこんなくだりがあります。「日本の産業はハイテクなものに力を入れてきました。しかし、我々は果たして生活を幸せにする使い方を知っているのでしょうか? 今後も私たちはコミュニティの中で仕事をしていきます。ハイテクだろうが、ローテクだろうが私たちは気にしていないのです。よりよい生活をするというのが最も重要なことなのです。」
バーチャルな世界と題して三回にわたってこのテーマを考えてきました。第一回目では99%の機械に使われる人と1%の機械を使う人の世界を捉えてみました。第二回目では教育に浸透しつつあるITが児童教育とどう向かい合うべきかをテーマにしてみました。そして今日はコミュニケーションとITについてフォーカスしました。
考えれば考えるほど奥深いテーマですが、われわれ人間がコンピューターに出来ないことは何だろうか、と考えた時、感情、人間愛、討論、といった絶対的な解がないものについてお互いに努力し続ける姿勢ではないかと思っています。SNSを通じた人とのつながりは会社人間にとって老後を含めて新たなるコミュニケーションの手段になるでしょう。それはシャイな性格でも文章なら発言できるという人にとってはうってつけかもしれません。そう考えれば素晴らしい技術であることは疑いの余地はありません。
一方で冒頭のお金を払ってお散歩してもらわねばならない顧客の気持ちの裏に隠された心の歪みはIT社会が引き起こした弊害でもあります。
技術の進歩は人間の思考の発展をはるかに凌駕するスピードで迫ってきています。我々人間はその技術とどう向かい合うのか、使われずに使っていく、という意識をしっかり持つことがこれからを生き延びるコツなのかもしれません。
バーチャルな世界について3回にわたり書かせていただき、おつきあい頂き、ありがとうございました。
今日はこのぐらいにしておきましょう。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年1月19日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。