日本食が無形文化財になったことは喜ばしいのですが、私は人々のライフスタイルの変化の中で日本食が少しずつ退化する可能性があるかもしれないと思っています。今日はこのテーマについて考えてみたいと思います。
私が20代の頃、皆でわいわい飲んでいた際、魚の話になり、多くの女性は魚は切り身が当たり前であり、本物はよくわからないという人が相当増えたという話題に世の中の変化を感じました。当時、私は釣りを時々していたので釣り上げた魚をさばくことは当たり前でした。あるいは時々訪れた銚子の漁港あたりでカツオや近海マグロのかなり大振りなものを買ってきては家でぱっと切り身にして冷蔵、冷凍処理していました。カナダでは通常、鮭は一本で買って切り身にして保存しています。
今、若い女性に魚をさばけますか、と聞けば過半数の人は出来ないでしょう。魚とは回転ずしのネタだと思っている人もいるぐらいですから。
先日の日経新聞に野菜はカットものが売れ線、という記事が一面に出ていましたが、若者が野菜のもともとの形すらだんだんわからなくなる時代がやってくるような気がします。そういう私も野菜がどう育っているのか正直、わかっているのか自信はありません。概念的には分かっても実際に栽培されているところはほとんど見たことがない気がします。ましてや輸入されているフルーツにおいては皆目見当がつかないものも多いでしょう。結果としてよくわからないけれどこれが美味しいというあいまいな認識になっているような気がします。
更に孤食の時代と称して、おひとり様惣菜が主流になってきている今、どこのスーパーでもそれなりの場所を割き、お総菜、お弁当コーナーが設けてあります。デパート地下の食品売り場で夜7時半過ぎぐらいに行けば3割引きのステッカーが躍る弁当を吟味しているのは会社帰りのサラリーマンです。
海外で居酒屋があちこちにオープンしています。バンクーバーもずいぶん前から市民権を得ておりますが、私がよく行く何軒かの居酒屋や寿司屋に日本人を見かけることはほとんどありません。白人がお銚子の熱燗に刺身を箸で器用に食べているのがいまだに珍妙な景色でありますが、むしろ日本人より日本っぽいところがあったりするのです。
一方、日本人の若い人が好む味はマヨネーズと味噌、さらに辛みでしょうか? 要は味が強く押しがあるものがより好まれるということなのですが、本来の日本食はだしと食材の奥深い味が売りだったはずです。
我々は日本食万歳、と自慢しているにもかかわらず、案外、本来の日本食を忘れつつある気がします。焼き魚や煮物を自分で作る人は少なくなり、正月のお節はもはや出来合いを買ってくるという常識ができつつあります。私の友人で長年アメリカで日本食を教え続けてきた先生がいらっしゃいます。この先生が作る黒豆はご本人が自慢するほど一粒一粒が黒いダイヤのような輝きを見せるのです。これぞ本物の和食の美なのです。
片や先日、日本人が作ったロール寿司を買ってみたら大失望。なぜかといえば包丁の切れ味が悪く、海苔がギザギザ、包丁についた酢飯が海苔にこびりついているのです。多分、包丁を研ぐことすら知らないのでしょう。海苔に酢飯を巻けば寿司になる、という単純発想が結局、本当の日本食がかすれていく危険信号ではないでしょうか?
日本食を継承する術を何らかの形で行わないと日本食を知らない日本人になってしまいそうです。
今日はこのぐらいにしておきましょう。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年1月22日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。