『「空気」の構造』でも書いたことだが、明治以降の官僚制度をプロイセンの行政法の影響だけで論じる通説には疑問がある。霞ヶ関の行動様式は、ウェーバー的な合理的官僚というより中国の科挙官僚(士大夫)に似ているからだ。
しかし中国には法治国家の伝統がないので、霞ヶ関のゴリゴリの実定法主義はどこから来たのだろう――と疑問に思っていたのだが、本書でその謎が解けた。中国にも儒教の徳治主義だけではなく、韓非子などの法家の法治主義の伝統があったのだ。
儒教は官僚の人格を高めて統治する思想で、孔子は法については何も語っていないが、韓非子は皇帝が法と武力で国民を統治すべきだと考えた。しかし秦がわずか14年で滅びたのは、あからさまな暴力による「覇道」で国家を治めたためであり、君子は徳目による「王道」で治めなければならない――と漢の董仲舒は武帝に進言し、漢では儒教が実質的な国教になった。
法家の中でも、初期の管子は「法は礼より出づ」とし、法は皇帝が一方的に決めるのではなく、人間関係にもとづく「礼」に従って制定すべきだとした。ここでは、礼や仁などの道徳だけで統治する儒家の立場と、法だけに依拠する法家の中間の「正による法」という自然法的な思想の萌芽があった。
しかし科挙の試験科目として四書五経が指定されたこともあって、中国は「孔子一神教」に近い状態になり、他の諸子の文献はほとんど読まれなかった。これに対して日本では諸子百家の文献が広く読まれ、法家の思想は日本のほうがよく継承された。特に安井息軒という江戸時代後期の儒者が管子を高く評価し、その弟子に明治憲法を起草した井上毅や、外相をつとめた陸奥宗光がおり、木戸孝允などもその影響を受けたという。
中国で法家が見直され、憲法や議会制度ができたのは辛亥革命のときだったが、軍閥がこれをつぶし、共産党政権には儒家も法家も継承されていない。これに対して日本では法家の伝統があったので、プロイセンの法治主義を受け入れるのも容易で、大陸法も顔負けの複雑で詳細な法律ができた。しかし管子のような自然法思想は、日本でも中国でも主流にはならなかった。
本書は、明治以降の日本が短期間に法治国家になった原因を見事に説明している。明治憲法の起源はプロイセンではなく、法家思想なのだ。また管子の自然法思想は自由民権運動などに影響を与え、「下からの近代化」の要因となった。法家を否定した中国がいまだに法治国家になっていないことを考えると、日本の近代化に対する江戸時代の儒学の貢献は意外に大きい。
ただ管子や安井息軒といったマイナーな思想家の影響で、日本の法をどこまで語れるかは疑問である。本書でも直接の証拠は少なく、「…と思われる」といった記述が多い。むしろ日本にコモンロー的な発想が残っていたのは、貞永式目や武家諸法度などの影響ではないか。
著者はハイエクの研究者だが、日中の法制史は彼の強調した法の支配の重要性をよく示している。それは韓非子のような法治主義とは似て非なるもので、法は長い時間をかけて形成された習慣にもとづかないと機能しないのだ。それを自覚していた儒者が中国にも日本にもいたのは興味深い。中国は絶望的だが、日本で法の支配を実現することは不可能ではないのかもしれない。