「すべての人生が、すばらしい」リクルートポイントCM映像の感動と違和感

常見 陽平


昨日のソーシャルメディアのタイムラインは、都知事選ネタと、佐村河内守氏のゴーストライター問題と、NHKネタでいっぱいだったが、そんな中、Facebookでシェアされていた映像があった。リクルートポイントのCMだ。なるほど、躍動感のある、感動的な映像だ。と、同時に複雑な心境になってしまった。

映像はマラソンのスタートから始まる。みんなが一斉に走りだす。「人生はマラソンだ」という朗読が始まる。この段階で、十分感動的だ。

しかし、途中で、池松荘亮氏演じるランナーが、走るのをやめ、振り返り、こう問いかける。

「本当にそうか?」

彼は沿道に駆け込みダッシュする。

「誰が決めたコースなんだ」
「誰が決めたゴールなんだ」
と問いかける。

それをキッカケに、このマラソンは、カオスになる。みんなが様々な方向に走りだす。家に帰り寝るもの、旅に出る者、結婚式をあげるもの。

なるほど、映像はいちいち躍動感があるし、美しい。ナレーションも胸を打つものである。

「すべての人生が、すばらしい」
というメッセージと、主人公の
「誰が人生をマラソンって言ったのは?」
というコメントで終わる。

しかし、その後で、「リクルートポイント始まる」という告知と、おなじみの「まだ、ここにない、出会い リクルート」というメッセージで終了する。

そうか、リクルートグループのCMだったのね、と。

よく考えると、さり気なく同社がサービスを提供している領域が出ていたなと思ったり。

所詮、世の中はお金で動いている。感動的なCMを無料でみることができるのも、そこにスポンサーのお金が動いているからだ。そして、広告は、広告でしかなく、お金を払ったスポンサーのコミュニケーション上の課題を解決するものである。

素晴らしい映像であったが故に、最後のギャップが大きく感じたのだろう。「リクルートポイント始まる」って「冷やし中華はじめました」みたいじゃないか。

ただ、この美しいCM(なんでも、同期が作ったらしい)にケチをつけるつもりのではなく、この「すべての人生が、すばらしい」というメッセージの今日的意味を、今一度考えてみたい。

このCMで感動する人、私のように複雑な心境になる人などなど、反応は人によると思うのだけど、いったんそれはおいておいて、「すべての人生が、すばらしい」というメッセージが発信され、共感を得ている人がいるということは、「人生は、実は素晴らしくないんじゃないか」と思っている人や、「(少なくとも一般論として)人生は素晴らしいと思いたいけれど、今の自分の人生は素晴らしいとは思っていない」人がいるということなのだろう。これが2014年の日本の現実。

一方、その解決策は多様な生き方なのだろうか。私も、豊かな社会とは、多様性と可能性がある社会なのだと信じている。そうなのだけど、多様性と可能性により苦しんでいるのが現代社会なのではないだろうか。いや、騙されていると言ってもいい。

「認識論的誤謬」という言葉がある。イギリスの研究者ファーロングらが指摘したコンセプトである。「多様化」なるものがジェンダーや階級的な不平等を覆い隠し、平等が拡大したかのような錯覚を起こさせることである。要するに、社会的構造においてどうしようもないことがあるのに、頑張ればなんとかなると思ってしまうことである。情報があふれる時代、実現可能性をあまり考慮せずに多様な選択肢だけが提示される時代である。自由なようで、そうではないような。

そして、自由だなんだと言われる前に、選択肢を決めてくれた方が楽だと感じてしまうのが、現代の日本なのではないだろうか。「まだ、ここにない、出会い」もいいのだけれど、そんなものよりも、まずは安定が欲しい。

感動的なCMであることに異論はないし、リクルート社にケチをつけるわけではない。同社のCMとしては、88年のアポロ月面着陸映像の「情報が人を熱くする」に匹敵する出来であり、話題になりそうだ。

さて、カスタマーはこのCMをどのように受け止めるのだろかと考えてしまった39歳の朝。

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