「日本を取り戻す」という物語

池田 信夫

きのうのアゴラ読書塾では、久しぶりに與那覇潤さんと『戦後史の正体』をネタにして対談した(前半は来週の「言論アリーナ」で放送)。そのときも一致したことだが、この本のようなわかりやすい物語を日本人は求めている。アメリカに支配された戦後の70年は偽の日本で、今こそ「日本を取り戻す」という気分が安倍政権にもある。


こういう「右派」が最近、元気になったのはいいことだと思う。朝日新聞のようなステレオタイプの「加害妄想」史観を卒業し、事実にもとづいて歴史を見直す必要があるからだ。ところがそれを批判する人々は、すぐ「東京裁判はけしからん」とか「南京大虐殺はなかった」という別のステレオタイプになってしまう。イギリス人まで、そういう罠にはまるのには驚いた。

つまり戦後、GHQに教え込まれた物語の賞味期限は切れたが、それに代わる物語が「大日本帝国」しかないのだ。安倍首相の「日本を取り戻す」というスローガンで取り戻す対象も、靖国神社に代表される天皇制国家だ。自民党の憲法草案に見られるのも、明治憲法や旧民法の家制度への回帰である。

こういう物語の賞味期限も、はるか昔に切れている。田母神氏が東京都の500万人の有権者のうち60万人集めたのは大健闘だが、これが限界だろう。それは既成事実になった「親米・護憲」という物語に代わることはできないのだ。孫崎氏のような幼稚な陰謀史観が20万部以上も売れたのは驚異だが、そういう特殊な物語を信じる人は国民の数%だろう。

これが日本の保守の限界である。アメリカには小さな政府という伝統があり、イギリスにはジェントルマン(地主階級)の伝統があるが、日本の保守には取り戻すべき伝統がないのだ。もちろん政治の問題をすべて解決する伝統なんかあるはずないが、そういうわかりやすい物語がないと現状を打破するエネルギーにならない。

歴史上ほとんどの革命は「失われたものを取り戻す」という物語で行なわれた。フランス革命は「人間は生まれながらに自由で平等だが、至る所で鎖につながれている」というルソーの自然状態を取り戻すと称して行なわれ、明治維新も天皇家に大政を奉還して「王政復古」するという形式で行なわれた。そのときはまだ天皇という物語には権力を動かす重みがあったが、今や「象徴」でしかない。

これが日本の政治が混迷する原因だと思う。自民党にはGHQの与えた民主主義という便利な物語があり、アメリカは「父親」として日本を防衛してくれた。日本人はそれにただ乗りしながら、孫崎氏のように「対米従属はけしからん」とぼやいていればよかったのだが、冷戦が終わってそういう気楽な状況はもう長く続かない。

しかし自民党には自前の物語がなく、それに代わる物語を打ち出せる野党もない。きのう與那覇さんの話でおもしろかったのは、安倍政権はデフレ脱却や貿易立国や公共事業で「高度成長を取り戻す」という物語をつむいでいるのではないか、という指摘だ。それはまさに80年代に終わった物語である。何を取り戻すのかわからないまま右にハンドルを切っても、今よりいい方向に行くはずがない。